10月5日

 浅田彰はアートは何者でもないがゆえに全てを求めるのだ、といったが、それでいうと法律屋はそもそもならず者であるかゆえに徹底的に批判しなければならない。彼等を褒めたたえる言葉は根本的におかしい。彼等は常に何ものかを隠している。彼等の言葉は常に欠損があり、素直なコミュニケーションにはならない。ここを終着点にするのはおかしいのだ。ここはボトムである。ここに抗わなければ生きているとはいえない。権力であるということは実際は弱いのだ。同時に権力に助けを求めることも疑わなければならない。痴漢の防止を求める声は必要は認めるとしても、本質的にジェントリフィケーション、清潔化を求める声であり、弱い者を排除し、権力を強化する声である。痴漢を少なくするならば、法ではない別の方法を考えたほうがいいのだ。

自然状態の拡大

 政治的に自然状態の拡大が進んでいる。言葉の意図的な誤用と荒廃への誘導は弱者のルサンチマンによって行われる。それは社会が無視してきた者の復讐である。ルサンチマンが肥大化すると社会は崩壊する。表向きそれは成功者として登場しているのが皮肉である。

なにかができるとはとても思えないほど破壊された世界でなお自由への希望をもつこと

 安倍政権の7年8か月、約8年で戦後民主主義が回復困難なまでに破壊された。はっきりいってこの後に自由と平和の展望をもて、というのは無理である。0から出発するほかない。建設的で創造的なアイデアが行政や国家のレベルで実現されることは当分ないだろう。グローバル資本主義の無軌道な暴力もここぞとばかりに日本を犯罪的破壊の標的にしている。為政者は外患誘致者で、国民も国家財産も守らない。白人はどうすれば人が売国奴になるか知ってるようだ。アメリカはイラクとアフガンの失敗を日本を攻撃することで補っている。赤字が消えるまで日本を搾取する気だ。

安倍退陣

 昨日、ついに安倍首相が辞任した。悪夢の等速度運動といってよい約8年間は反動をちらつかせて外国資本に日本資産を窃取させることに狂奔した日々だといえる。この間に何をやったかというと、健全な資本主義的発展を完全に潰した。案の定、再軍備は不可能だったが、それで勝ったとはいえない。日本は反動的なままだったのだから。

〆2

2カ月に一度の日記

そろそろ合格水準の成績を叩き出さないといけない。

[1]
https://www.youtube.com/watch?v=MPV1PPb2mJI
こうも臆面もなく搾取の強化を主張されると苦笑する。もう「貧乏人(負け組?)は麦を食え!!」とはっきりいったらどうか?冷戦崩壊以後、世界経済が19世紀へ先祖返りした結果、マルクスの分析がリテラルに当てはまる局面が増えたといわれるが、その典型例といってよい。シュンペーターに問題があるというよりは、資本と腕力を得たことで知を消失する者の具体例だろう。あるいは、イギリス型の支配が世界化していて、そのトレンドに乗っているだけというべきか。


https://www.youtube.com/watch?v=YcG5ztvJlyk
最も聞きたかったイスラム国についてのコメントが聞ける。外山氏のビジョンはアナーキスト・パーティーによるナショナル・ソーシャリズムのようだ。
この方向性をとった場合の問題はかつて批評空間4号で話題になったように、アナーキストナショナリズムに呑み込まれる事実があることだ(権藤や橘の社稷運動)。皮肉だが、アナーキズムは具体的な生活基盤を模索するとナショナリズムに取り込まれる。歴史的にはアナーキスト・パーティーは理念的であるほうが政治的ラディカリズムを保てる。ここにアナーキズムの最大のジレンマ(あるいは享楽)がある。


去年の選挙の問題は自民党の圧勝が続いただけでなく、維新の党が議席数を維持した点にある。要するにグローバル(アングロ・サクソンユダヤ)資本への最適化勢力が議席を維持したのだ。ゴダールが「国民戦線が伸びて、一回フランスの大衆が本当はどう思っているのかを表に出したほうがいい」と皮肉でいっていたが、日本でも同じことが起こっている。
(※ヨルダンに1億ドル、エジプトに25億ドルの円借款をするという(1月17日)が、それはアメリカ政府とアメリカ企業に渡る金銭だろう。なんという露骨さだろう。はっきりと市民生活は絞り、日本国内にグローバルな富裕階級を作り、そこだけを守るシフトだ。)
この点、読書人での中島一夫氏のコラムはミスリードというべきだ。先の選挙で危機に瀕したのは議会勢力ではなく左翼である。中島氏はかつて大阪維新の会をプロレタリア革命まであと一歩とシニカルに称賛し、鎌田哲哉氏と論争になったが、この論争は鎌田氏が正しい。旧維新の会によって資本主義の矛盾が拡大すればゼネスト・クーデターが起こるだろうという考えはナイーブで非現実的である。新自由主義は革命が打倒すべき最後の敵=保守反動なのではない。「新自由主義こそが最後の革命思想(と彼らは思っている)」なのだ(ダースベイダーこそがルークの父である)。従って、政治的反動たる新自由主義が伸長すれば市民的自由への抑圧によって人々が議会と市場にそっぽを向き、ブルジョワ社会の外部で奮闘してきたマルクス主義者の偉大さに気付くだろうと考えるのは認識が甘い。ネオリベ=ネオ・インペリアリズムは「持続可能な搾取スキーム」をブリ・コラージュし、政治的自由への期待を吸収し続ける(我々はその醜悪な姿を既に見せられている)。資本主義の伸長は搾取の強化と市民の衰亡を生むだけで理論的な反転は生まれない。逆説はないのだ(※1)。

新自由主義新保守主義が転向ないし換骨奪胎されたラディカル(conformed radical語義矛盾じゃないかって?その通り!)である可能性を疑うべきである。彼らは体制順応(conform)しているが、政治姿勢だけは攻撃的であり、為政者であってもリーガルマインド(遵法精神)がない。conservativesは急進的な政策をとらない。世界は彼らの生活習慣そのものであって変更を必要としないからだ。しかし、急進的順応主義者(radical conformist)は資本・民主主義の中での立身出世を「自由」とみなすので、出世のために外部を破壊し、トロフィーをとってくる必要がある(イアソンのように)。露悪的な理念の嘲笑と偽善的な自己正当化、パワープレイと陰謀、剥き出しの暴力と財力、マスメディアによる煽動と草の根レベルでの個の抑圧、あらゆる手段を使って批判者を封じ込めるだろう。なぜか?帝国主義戦争こそが、社会主義の理念の消えた世界(フクヤマ-パラダイム)における革命戦争(個人の自己実現のための最後の戦争)だからだ。勿論、これは悪質な欺瞞である。『LEFT ALONE』で花咲政之輔リバタリアニズムこそがネオリベラルな金融右翼(フリードマン)のイデオローグでそれは本質的に転向左翼だといっていたが、これは常識として押さえておかなければならない。現代資本主義のプレデターに対抗するのに、アナーキーな態度による支配への対抗ではダメで(ネオリベラルの支配は「解放」という形でやってくるので、「規制の撤廃」を支配の消失として歓迎すると、資本主義=帝国主義に支配される。ネオリベラルな「規制緩和」は自由の獲得ではなく「統治者の債務不履行(履行放棄)」ないし「不完全履行」であって、被支配者に何の利益ももたらさない。眼前の支配者に噛みつくだけだと資本主義に支配される。それは上記の動画を見ればわかることだし、より大きなレベルではイスラム圏への支配に露骨な形で現れている。)「理念」や「党」が必要とされるのはこのためである。

これは単に観念的な問題ではない。我々はユーストリームを見れば一度も使ったことのないFedexのcmを見せられるのだ。私の何気ない自然な活動は、既にグローバル資本の利益を生み出すものになっており、隠密裏に政治経済構造が組み換えられている。自然や反発ではダメで、理論が必要なのだ。これは多様な文化のポリフォニックな共存ではなく、帝国主義的支配である。この点で、以前のエントリーで引用したほり太氏のコメントは秀逸なコントであると同時に等身大で直面している問題に対するラディカルな批判になっている。
我々は帝国主義の伸長に対して言論、デモ、人権で対抗できるのだろうか?あるいは、やはりENDは戦争しかないのか?
http://d.hatena.ne.jp/nomad68k/20140827/1409156981

(※ファシズムはcounter revolutionだといわれるが、これとの類比でいうと現在の新帝国主義はconforming revolutionだろうか?(我ながら酷い造語だ。恥も外聞もない。Reactionariesには存在論的主体性がある分まだ文明的に見える。あるいは、東浩紀氏の「動物化」論は体制順応主義の全面化のことなのかもしれない。)明らかなアメリカ資本による娯楽搾取でありながら、『ベイマックス』や『FROZEN』に夢中になり、「仕事」にしている「文化人」を見ると、それがunited statesへのconformism以外ではなくてもrevolutionalな要素(動物革命?)があるのだろうと推察する。この点に対する批判がオタクカルチャーの内部からでも聞けたことは(息の長い批判になれるかはともかく)嬉しい驚きだった。ラセターが宮崎駿の友人であろうと、常にマイノリティを題材にしていようと、背後の資本が「米帝ディズニー」であることを忘れてはならない。それは「司法制度改革」にはより露骨で醜悪な形で現れるだろう。内における民主主義と外に対する帝国主義。現在が順応主義の時代ならば、フクヤマがイデオローグなのは象徴的である。同じディアスポラクレオールならば、我々はデリダ、サイードでなければならない。鈴木邦男は80年代には既に官僚的順応主義を批判していた。やはり政治運動をやる活動家には批評的な嗅覚がある。イデオロギーの違いを超えてオピニオン・リーダーの言葉を傾聴すべき理由がここにある。)

(※1 反動化が進めば政治、経済的抑圧の高まりへのフラストレーションによって革命の機運が高まるというのが、右派の勝利を左派が逆説的に評価する場合の理由である。しかし、新自由主義は体制順応化革命でありアンシャン・レジームに対する革命的要素を部分的に含むので右派の勝利は労働者、マイノリティへのストレートな抑圧にはならず(とはいっても実際は狡猾な形になっているだけだが)、それゆえ革命待望世論の内気圧の高まりは起こらないのだ。むしろキャリアリズムと財産蓄積、保険といった現状追随主義が強まる。アナーキスト、ルンプロでも出世/成功できるという幻想を振りまくボナパルティズムの登場である(勿論、そんなことはできない。...マクシム・デュ・カンの時代)ではどうすればいいのか?逆説や予想外の逆転はないのだから、(たとえ勝てなくても)普通の左翼として右派を批判するほかない。そう簡単に「世界を変える」ことはできない。むしろ「左派の空想的な革命ではなく、既成権力に則った具体的な改革によって世の中を変える」と称する「偽物の救世主」を徹底的に叩くことのほうがかえって「世界を変える」ことになるのではないか。まぁ、その程度のことは中島氏は常に既にやっているとは思うが。)

[2]
2014年は私にとってlgbt元年だった。人気アニメにひっかけていうならば、セカンドインパクトといってよい。
映画にしろ、本にしろ、ウェブにしろ、可能な範囲ではあるが、かつてなくよく見、よく読んだ。何よりも、よく考えた。この際に役に立ったのが『批評空間』で予め知っていた、浅田彰氏が紹介していたlgbt関連の論文である。理論的なテクストを形だけでも頭にたたき込んでおいたおかげでlgbt世界の受容がスムースになった。
上野千鶴子さんがlgbtなんて関係ないと思っている人間にこそ、マイノリティポリティクスは訴えかけているのだといっていたが、まさに問題は驚くほど身近だった。私は文字通り目覚めたといってよい。自分を啓蒙してくれた様々な知的資本に感謝しなければならない。世界を変える者は文字通りハトの足でやってくる。これは現政権を批判する際に私を勇気づける事実である。

今年はどんな新しい世界に出会うことができるだろうか?様々な悪条件にも関わらず、なぜか私は希望をもっている。

(※ 昔聞いてたサイキックフォースのこの曲は露骨にLGBTテーマだといまさら気づく。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6514421

[3]
なんども改訂するのはよくないこと。ネット依存を断ち切れていない証拠だ。が、最後の投稿。
『マスター・キートン第6巻』第4話「偽りの三色旗」、第5話「偽りのユニオンジャック

教室でマンガ好きの同級生が盛り上がっているのが羨ましくて初めて買った『マスター・キートン』である。クオリティのバラつきはあるが、湾岸戦争を扱う第8巻までの『マスター・キートン』は好きだった。帰国子女でいつまでたっても日本に同化できなかった高校生の私にとって、ハーフで日本とイギリスのみならず世界を股にかけて活躍するコスモポリタンキートンは(軍人であったりもするのだが)来るべき世界におけるヒーローだった。何よりも、マンガで国際情勢に触れられることが新鮮だった。
上記の話では主人公のキートンは後景へ退いて、SASによる元IRAの女性活動家射殺事件の真相究明とこれについてのメディアの報道姿勢をめぐるジャーナリストの物語が語られる。この話で、主人公のジャーナリストはSASによって惨殺された彼女のむごたらしい現場写真を載せようとする新米記者を叱り飛ばし、「写真は彼女の生前の一番美しい写真を使え!!」と指示する。勿論これはフィクションだが、この話でのジャーナリストの矜恃に私は深い感銘を受けた。状況を構成するピースは様々に異なるが、子安宣邦氏の短文を読んでこのマンガのことを思い出した。

https://www.facebook.com/nobukuni.koyasu/posts/607802166018410

https://www.youtube.com/watch?v=ukVfnSIhuVg#t=953