雑記

 やはり、法科大学院は根本的に作り直さなければならない。戦後、いくつか民主化がなされなかった領域があり、その一つが司法だとされるが、(いい意味でも)悪い意味で(も)その影響を感じる。少なくとも、現在の法科大学院の教員には教育に関する問題発見−解決能力が完全に欠如しており、彼らが教員が続けていれば法科大学院の抱える問題が何一つ解決されないことは明らかだ。
 中でも、マイノリティの問題に関する知識の欠如は致命的である。彼らは問題の存在そのものを知らない。彼らには本来0から勉強をやり直す覚悟が必要なのだ。しかし、彼らには基本的に天下りの意識しかない。法科大学院の現状に苦しんでいる教員もかなり見受けられる(彼らは愚か者でも恥知らずでもない。むしろプライドが高く、法科大学院の現実の前に苦しんでいる)。しかし、彼らは問題の所在がどこにあり、自分がどうすればそれを解決できるのかが見つけられない。本当は自分たちが巨大な問題を押しつけられているのに、今までやってきたことの延長上で少し工夫すれば問題を解決できると勘違いしている。そんなことはありえない。上位ローの教員も酷いものだ。エリートとしての雰囲気と本来の法科大学院の方向性を輸入してくれることはありがたいが、単にそれだけである。硬直したエリート意識から抜けられず、正解を示すことはできても、大学院で起こっている問題を正確に把握ことができていない。
 功なり名遂げて権威を得た、現実に学長や大規模事務所のボスとして活躍している法律家が、大学院の一線で教鞭をとることがそもそも無理があるとは思う。しかし、だとしたら、優秀で、なおかつ大学院で教鞭をとることにスケジュール上も報酬上も無理のない、30代〜50代の教員の育成を予めしておかなければならない。

 書けば書くほど絶望的だな。こんなシステムを見切り発射したのはそもそもその前の旧司法試験が現在にもまして酷かったからだ。前よりはましになったのだ。しかし、それはあまりに酷い状態から酷い状態になっただけである。