優等生と不良?

 批評家の浅田彰氏がSPAでの福田和也氏との対談でドゥルーズスピノザ研究者の國分功一郎氏を批判している。雑誌の対談だけ読むと何をいいたいのかわからないが、恐らく、國分氏がヌーヴォー・フィロゾーフ的な反動を無自覚に演じていることへの批判ではないか。確かに人権と議会制民主主義が最後の政治制度なのだから、その枠組みの中で最適な選択をすべきだというのでは、彼が繰り返し批判してきたルノー/フェリーと変わらない。それはマイナーコミュニティの政治家か、あるいはそれに代わることを期待される弁護士あたりがいうべきことで(民主主義において政治家が議会制度に則り、弁護士が個人の自由と人権を最高の価値として発言するのは当然のことだろう)、哲学者がいうべきことではない。哲学者は政治家、弁護士の優等生的な発言の欺瞞、矛盾を批判し、概念を創造する切片でなければならない。そのためには、優等生的な自己完結した世界への緊張を持つ「不良」でなければならず、彼としばしば対談をする千葉雅也のほうがそうした「不良」性がある、と。
 國分氏の言論活動がどういうものか知らないが、哲学者が統治活動を補完することが愚劣だというのはその通りだ。哲学者、あるいは哲学研究者はフェイス・トゥ・フェイスのレベルで困っている他者を一人一人助ける必要などない。お悩み相談などせず、尊大に批評をしていればいい、といったところだろうか。

 この問題は理論的に見れば、日本で何度も繰り返されてきた、前衛と啓蒙の混同の問題である。確かに哲学者が議会制と人権(資本主義的な統治)を擁護するようでは知的創造性は望むべくもない。しかし、現代日本の支配原理は近代ではなく植民地的な専制と土俗的な無知のアマルガムであるため、しばしば前衛が啓蒙を二人羽織りしなければならない。...浅田氏自身も何度か述べており、また、多くの知識人が言及していることである。

 つまり、日本の政治空間においては近代が弱いために前衛のバネが殺される。この日本であくまでも哲学をやりたいなら、啓蒙による弱者救済など無視して、反時代的な孤高の存在であれ。
 今一度逆説的にいうならば、國分氏にまともに哲学者をやってもらうためには立法、司法、行政といった権力の各セクターの近代化を行い、権力の内容とその手続きの透明化を行わなければならない(不良が不良でいられるようにするためには、野蛮と無知ではなく優等生が権力を握ればよい)。そして、権力内容の明確化と執行手続きの透明化のためのキーになるのは昭和天皇の戦争責任の明確化と共和政体の導入である。それがまったく進まないために前衛を企図する者は延々と啓蒙を二人羽織りさせられるという悪循環にさらされる。