君主の善政と民主的な悪政

 田中芳樹の『銀河英雄伝説』の中で、確か、こういう条りがある。

 帝王の善政と民主的な悪政では、前者のほうが市民にとって好ましい。民主政は自らにとって相応しい為政者と政策を選ぶとは限らない。それでもお前は民主政を選ぶのか?皇帝になったラインハルトにこう聞かれて、ヤン・ウェンリーは次のように応える。確かに民主政はデマゴーグを生み出すし、民衆に政治的判断力があるとは限らない。しかし、それでも私は帝王の平和よりも民主政下の苦難を選ぶ。なぜなら、民衆には自ら選んだ悪政の害悪の責任をとる必要があるからであり、それこそが自由だからだ。自ら選んだ悪政を王に責任転嫁できない。それが民主政治の最大の利点である。

 うろおぼえの内容だったが、恐ろしいもので、「名言集」で検索できる。原文はこのようであるらしい。


 人民を害する権利は、人民自身にしかないからです。言いかえますと、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム、またそれよりはるかに小者ながらヨブ・トリューニヒトなどを政権につけたのは、たしかに人民自身の責任です。他人を責めようがありません。まさに肝腎なのはその点であって、専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです。その罪の大きさにくらべれば、100人の名君の善政の功も小さなものです。まして閣下、あなたのように聡明な君主の出現がまれなものであることを思えば、功罪は明らかなように思えるのですが・・・・・・。

 このセリフは民主制の消極的主張にすぎない。その意味で来るべき民主政治を考える際の参考にはならない。
 しかし、我々が今、自ら選んだ悪政の報いを受ける前段階にあることは確かである。大衆は熱病に罹り、批評は機能を失っている。小春日和の時代が去って、長い批評の時代が始まるのだろうか?いずれにせよ、激動の時代においては多くの神々が興亡し、泡沫のように消えてゆくだろう。

 ナチスが政権を掴んだとき、多くの人々がその支配が永続化すると考えたが、現実にはその支配は12年で幕を閉じた。長く続くと考えられる悪夢も呆気なく終焉を迎える。しかし、それはナチスが好戦的で戦争を指向したからだともいえる。(対外的な)戦争を指向しなかったスペインのフランコ政権は35年続いた。
 これから始まる悪夢は我々をどの程度拘束するのか。
 いずれにせよ確かなことは、批評を必要とする世の中になったということである。泡沫的な言説が現れては消える中で、哲学と批評=自己吟味の鋭さが問われるだろう。それは私自身の言葉でなければならない。
 矮小な言説の応酬も、やがては哲学的な言説の対決になる。そのときが政治のクライマックスである。最後は新自由主義と超越論的批判の対決になるのだろうか?
 過去から学ぶことは多い...