哲学の起源と世界史の構造

 イソノミアも世界連邦も新しいものではない。それらは以前からあるものであり、柄谷氏が批評的に添加したものは今のところはない。新しさがあるとしたら、これらの構想が2000年のトランスクリティークから一貫していることである。今思うと、パララックス・ヴューとくじ引きの提案は抜群に新しかった。パララックス・ヴューについては黒崎政男氏が矛盾するもののいいとこ取りをしてないかという疑問を呈していたが、実際には相互的な視差の交換として機能している。中南米トランスクリティークとしてのパララックス・ヴューについての指南を請われて驚いたといっていたが、やはりトランスクリティークは人種、文化、民族、宗教の混交する新大陸のような社会のほうが実用化しやすい。逆にいうと、日本ではトランスクリティークのレベルに認識をもっていくのは恐ろしく困難で、その前段階として、強靱な同質化圧力と無関心の中で、執拗に他者=マイノリティの存在を訴えていく必要がある。日本の論壇を見ていて抜群の影響力を発揮していると思えるのは、彼のくじ引きのアイデアである。当時も卓抜だと思ったが、こちらはドメスティックに使えるせいか、かなり人口に膾炙したものになっていて、その起源が柄谷氏にあること自体、まったく意識されていないのではないか。選抜にランダムノイズを持ち込むこと。たったそれだけのことが恐ろしくものの風通しを良くする。

 イソノミアや世界連邦が広範な支持を得ているかはわからない。一つの批判は、これらが再生産や食料生産の共同体につながらないということだ。この批判に対しては、そのような共同体から一度出た者こそが、これらの新たな共同体の成員となると回答している。果たして、再生産と食料生産を偶然に委ねた者の共同体はドミナントになるのだろうか?再生産の共同体からの憎悪、暴力、嫉妬をかわせるのか?イソノミアやタウンシップを作るとして、そのフロンティアはどこにあるのか?