雑記

 柄谷行人氏の共同体回帰の傾向が気になる。
 いうまでもなく、柄谷氏の目指しているのは高次の共同性であり、国家の上位概念/組織としての国際組織を形成するためのものだ。この点に誤解はない。しかし、日本で共同性という場合、前近代的な土俗社会や封建制度への同化を求める傾向が、社会だけでなく、司法制度のレベルで残っている(日本の司法制度は言語ではなく生殖を原理にしている)。不用意に戦士階級を称揚すると、フォーマル・インフォーマルなレベルでの排外主義の強化につながりかねない。勿論そんなことは柄谷氏には分かりきったことだとは思うし、そちらが問題となるならば、それは直面する当事者が解決しろということだろう。なんでも自分に頼るな、と。それはその通りなのだが私の持ち場問題となるのは常に暴力と虚栄心なので、生殺与奪の権の問題についてはどうしても敏感になる。
 とにかく、司法制度のレベルでは、何度でもドメスティックな共通了解への同化を強制するシステムに対し外部を突きつけて、これを多様な物語の共存できる、リベラルなフィールドへと解放していかなければならない。この点について、原理の分析も批判方法も、誕生してから40年〜60年近い年月が経過しているが、これらが古いことだとはまったく思わない。誕生した時期からいかに時間が経過していようと、現に達成されていない問題はいつまでも新しい。
 司法に関する限り、リベラルほど実現困難な理念はない。