雑記

 求められているのは同化だけである。法律家に英雄的要素はない。自己実現の希望は一切ない。欲望を拘束したマイノリティ・スタイル以外で生きることはできない。希望があるとしたら、希望は一切ない、ということを私が知っていることだけである。孤立した異邦人を理解できる者はいない。孤独こそが友人であり、私の名誉となるだろう。
 繰り返す。希望は一切ない。欲望を拘束する以外に生きる道はない。フーコー的な解放の理想は断念されなければならない。


 際限なき自己解放と自己生成的なルール⇔自己拘束的な生

民主制ではなく王制で考える。
自由ではなく虚栄心で考える。
抽象化の代わりに同化を行う。
理念を実現し、自由で平等な社会を創るのではなく、支配を維持管理する。

 公開された透明で公正なルールではなく、秘密主義的でプライベートな支配がルールだというのだから、やってられん。こんなの民主国家の法律じゃないよ。この国で民主的な批判をすることの難しさにぶち当たる。

 学校の問題点を指摘し、学校を変えていくためには批判的な言説とオピニオンリーダーが必要だ。出世のためにそれを避けようとするから問題が沈黙に付され、泣き寝入りが量産されるのだ。
 自由と利益は両立しない。当たり前のことだ。

 しかし、なぜこんなに人材がいないのだろう?自分の考えなど誰でも思いつくものだと思いたいのだが、同じ意見に一向に出会わない。自分の望むものは自分で作るほかないということか?自分がリーダーにならなければならない?そんな資格があるとは思えない反面、この壁を乗り越えなければならないとも思う。
 俺の人生はなぜこんなに複雑なんだ?とにかく、哲学と法学を両方やる奴が異常に少ない。

 ドゥルーズの理論はいま一つピンとこないといわれていたし、それはその通りなのだが、数奇な運命を辿っている自分からすると、これほど使いやすいものもない。そう襞の概念だ。マイノリティの持つ複雑さ、わかりにくさをマジョリティに伝えるのに、襞ほどわかりやすい概念はない。まさに我々の襞によって形成されているのだ。