先月の憂国呆談

 よく読み返してみると、大阪市の市長について、田中氏が突っ込んだところを浅田氏が抑えている。一見すると浅田氏は彼を褒めているようだが、同時に挑発に乗らないように注意深く振る舞っているように見える。田中氏は優秀だが、情緒と温性の人なので、カムフラージュされた攻撃に気づいてないのかもしれない。通常のコミュニケーション回路に慣れているとわからないが、彼の言語活動には根本的におかしなところがある。彼の言葉には共有すべき価値が一つもなく、聴者への「攻撃」作用しかないのだ。つまり、応答可能性がない。コミュニケーションとは価値の共有と差異の確認であるから、人は社交において最低限の親密さを保ち、相互承認を図らなければならないのだが、それがない。これはどういうことかというと、彼の行動が言語活動ではなく腕力の行使であることを意味する。こうした、言葉を模した腕力は言語ではなく暴力なのだから、端的に批判しなければならない。腕力には社交的な言語ではなく批判的な言語で応じなければならない。それは彼の発言に理念が欠けていることと重なる。逆にいうと、社会生活の基礎ともいうべき相互承認を図れないのは、コミュニケーションを恐れているからだ。

 時代錯誤なメガロシティを作るくらいなら、いっそ街を廃墟にするのも一考だ。言葉も住民の同意もなく資本のために生まれる街など、最初から廃墟と同じである。


 憂国を読めない分、ネットで瀬戸内国際芸術祭の紹介記事を読むが、文章量の多さに圧倒される。それだけこの美術展が内容豊かだということだろう。読みながら、柳氏の作品を逆に見てみたいと思ったし、ジャンプ先に掲載された黒瀬氏の評論も読んでみたいと思った。また、真夏の瀬戸内に拡がる様々な建築物に思いを馳せる。

 日本は政治的民主化は一向に進まない代わりにテクノロジーと輸入学問だけが繁栄するフランケンシュタインだとは思うが、浅田氏の紹介を見ていると、もうフランケンでいいから芸術活動に賭けたほうが生産的なように思える。いや、そんなことはない。差別が制度化されているというのは根本的な問題だし、公民権運動はしなければならないのだが、こうした芸術の紹介記事を見ると、これほど知的な公民権運動はないのではないかと思うのだ。
 これは相当実験的なプロジェクトなのではないか。浅田氏の明晰な紹介とウェブで検索できる写真のおかげもあって、紹介文を読みおわってみて、その先鋭さに圧倒される。うらやましい限りだ。また、これほど生き生きとして警戒を解いている浅田氏の文章を読むのも初めてだ。ルーツへの言及もあるし、ホームで活動できる安心感なのだろうか?心臓の鼓動のことに2度触れているが、病気一つしたこともなさそうな浅田氏だが、体調が悪いのだろうか?カリスマがいつまでも健在だと思うべきでもないだろう。いずれにせよ、レヴューは小春日和ともいうべき多幸感に溢れている。しかし、ここを断念しなければ前に進めない。遊びの反対は現実である。私の現実はあと1カ月しかないのだ。