ならず者の政治

 大阪市長の言葉には、本来社会的な存在たる大人が持つべき節度や礼儀が欠けている。幼児性、不意打ち、無教養、無節操。彼の言葉は聞く側が一方的に耳を貸してやらなければ存在しない。聞く側(プレイヤー)が一方的に話者(デザイナー)に合わせなければならない言語ゲームとは何か?そう、くそげーである。

 人はこのクソゲーには何らかの理由があるのか?といぶかしむ。普通のメーカーは率先してクソゲーを発表しようとはしないからだ。
 彼は強権政治の手法をとりつつ話法に大衆への甘えを混入する。強権といっても権威主義的な高圧さで支配するだけではなく、下品さで大衆の支持を獲得しようとするのだ。あたかも彼がマイノリティの代表であるかのようにプロパガンダする。

 彼の言葉には理念が存在しない。それは彼の政治活動が言語ではなく暴力だからである。理念の欠如は最悪の暴力を意味する。ルールを守る相手に反則を使うので彼は必ず勝つ。そして、彼の活動が反則だという批判を封じれば「作られた勝利者」が完成する。彼の目的は個別的な「勝ち」だけなので、この暴力には終わりがない。大阪はエンドレスな暴力に巻き込まれることになり、その悪夢は彼らが自滅するまで終わらない。

 問題なのは、こうした政治姿勢が自由主義リバタリアニズムから出てきたことだ。自由の対極にある暴力が自由主義を名乗る勢力から出てきた。そして、自由主義と公然と名乗っている人々が彼を支持する。通常の政治学は「民主主義」は専制につながるが、「自由主義」は孤立と格差拡大につながると教えるが、セオリーに反して「自由主義」が暴力を選択し、専制のジェネレイターになったのである。彼らには自由=言語的批判に不可欠な自己批評性がない。彼らに批判がないのは自由が言語ではなく金銭=資本に置換されているからだ。資本を神とした神学を展開しているだけなので、暴力行使に迷いがない。彼らは自由主義者ではなく資本主義者=武装強盗団である。勿論そんなものは存在しない。これは理念=言語を否定する悪質な反知性主義、即ちファシズムである。
 ヴィトゲンシュタインナチスの政権掌握に際して「犯罪者が政権を握った」と正確に指摘した。かの政党に対して同様の警戒をすべきである。組織を持ち、最初から迷いなく暴力を使用する。しかも自らを極右と名乗ることなく大衆的な国民政党だと主張する。これはファシズム政党以外の何者でもない。堺屋太一大前研一といった著名なブレーンの名前に目を曇らされてはならない。政治評論家はこれを「普通のリバタリアン政党」と評したが、ここに普通のものは一つもない。彼には批評家としての能力がない。また、社会評論家は「新自由主義」は批判が難しいというが、思考の柔軟性を失って視野狭窄に陥っているというほかない。ならず者の権力掌握を言語的なコミュニケーションで批判するのは間抜けである。ヒトラーに対抗できたのがチャーチルスターリンだったことを思い出すべきだろう。
 繰り返すが、ここにあるのは自由=言語ではなく、暴力=犯罪なのだ。経済的なバックボーンや伝記的記述、新自由主義イデオロギーから彼らを見るべきではない。これはならず者の集団である。彼らには最初から政治を行う資格がないのだ。それを指摘できないのは我々が平和惚けしているからだ。

 政治家であるにも関わらず、彼が公然と暴力を行使するのは政治的判断を行う知的能力がないからである。知的能力のない者を権力的地位につけるのは日本の教育とエリートシステムに致命的な欠陥があるからだ。センスがない者が政治を行えば正常と異常の区別がつかず、必ず社会に大きな災厄をもたらす。彼を「重要な政治家」と評した東浩紀は、フォローをするなら資本主義の毒に酔っているのだろうが、妄言を弄する無知な男である。言語を扱う者は言語の純粋さを持たねばならない。しかし、大阪市長の言葉には純粋さが一切なく、言語にも他者にも何の敬意も払っていない。根本的な幼児性から一度も脱却したことがないのだ。この程度のことがわからないのは東氏の感受性が鈍く卓越性がないからである。

 柄谷行人ファシズムに抵抗できるのは民主主義ではなく自由主義だけだとかつて分析していた。しかし、むしろ自由主義を名乗ってファシズムが現れた。悪質な政治に抗するためには批評が必要である。個人の自由を資本主義から注意深くズラすこと。各々の自由を「自由主義新自由主義?)」からはっきりと切り離すこと。