あえての発言

 今月のユーコク呆談(検索で自分のページばかりひっかかるので...)。相変わらず橋下徹氏に対しては教育的指導が続く。優しいなぁ〜。まともな批判はジャーナリズムによってなされたという判断なのだろうけど。一般的には田中氏の感想のほうが正しいだろうし、そもそも浅田氏が後に指摘する安倍政権の戦後レジームサンフランシスコ講和条約体制(?一国平和主義?)の、右寄りのビジョンによる打破の姿勢、が橋下氏にもあったために、そのような政治的なカラーと合わせて批判されたはずなのだが、安倍氏と違ってこちらはお咎めなし。恐らくポストモダンなマイノリティメイヤーとして両義的な評価をしているのだろう。浅田氏は橋下氏に対して常に両義的な評価をしており、一義的な評価はしない。マイノリティが自己実現のために体制化することはある程度認めなければならないというポリシーに誠実なのだろうか。これは意外と微妙で複雑な問題なのだろうか?しかし、両義的な評価というよりも、実質的にあまり問題にしてないようにも見える。よくわからない距離感だ。

 本当は経済の話が読みたいのだけど、猪瀬、橋下、安倍と著名政治家の問題発言や問題パフォーマンスが続いているため、経済批評はあまりなく、外交批判。しかも、それも常識的な批判以上のものではないのでつまらない。その中でも橋下氏への批判が一際小さいのは、やはりマイノリティに対する両義的な評価のためか。あるいは年下の政治家はできるだけ叩かないで育てるという方針なのだろうか?

 記事では冒頭のワタリウム美術館で展示中のアートについての対談が一番面白かった。スナップショットを撮って大きく引き延ばして掲示するというアートで、浅田、田中両氏も無愛想な表情で写っているのだが、小説家/政治家として多少、表情を作ることに心得のある田中氏に対し、浅田氏は身体に負担をかけて結構な距離を移動してきた学者先生の疲れが顔に出ており、心配になると同時に笑ってしまった。それをそのまま雑誌に掲載するのだからスゴイ。偶然は拒まないということか?でも、少しは身体も労ってくださいね、浅田先生。


 ...とか書いていたら大阪がオスプレイを受け入れるとのニュース。地元への説明はなし。アメリカを中心とするグローバル資本が欲しいのだろう。両義的なマイノリティ市長というけど、やはり新自由主義なんじゃないかなぁ...。

 あえて書くけど、大阪維新の会には動くべきでないときは動くべきでない、という判断はないのだろうか?ケンカには動くべきでないときというものがある。動かざること山の如し」という言葉の示すとおり、戦争はメリハリが肝である。資本主義企業のように人々に飽きられないように常に話題を提供し続ける必要はどこにもないはずだ。