法律の勉強

 法律の勉強の基本は暗記である。教員はしきりに暗記するなというが、あくまで暗記である。裏を返せば、地名と同じで一旦覚えてしまえば単にそれだけのことにすぎない。「暗記するな」とは「公理を抽出しろ」という意味ではなく、「既存の権力に忠誠を誓え」という意味だ。知的な要求ではなく、政治的な要求である。それならそれでアメリカのように合格後に「宣誓」でもさせればいいと思うだろうが、なぜかそうはいかない。
 とにかく、勉強はひたすら暗記である。何を暗記するのか?実務慣行と、その基盤となっている最高裁判例である。では、マイノリティの人権はどうなるのか?オルタナティブの政治の可能性、民主的な法制度の構築のための理論はどうなるのか、と考えるだろう。恥ずかしながら、実務法曹はマイノリティの人権も、民主的な法制度のあり方についても何も考えていない。少なくとも試験レベルではそうである。では、マイノリティは自己実現に対して希望が持てないのか?民主的な政治制度を信頼できないのか?前者については基本的に希望は持てない。マイノリティグループに生まれた者は自己実現については絶望するほかない。マイノリティとしてのディシプリンを内面化して生きるほかない、といっておく。後者については難しい問題がある。芸術家、市民運動として直接かつマイナーな自己実現を目指すか、代表制の枠内でマジョリティに同化して割り引かれた自己実現を目指すかの選択がある。どちらにせよ、何らかの欠損を受け入れる決断が必要である。
 マイノリティの人生にマジョリティの全能感はない。
 とにかく、アメリカ映画に出てくるようなマイノリティの人権を擁護する弁護士になろうとするには多大な困難が伴う。我々は既にある道を歩くのではなく、道そのものを作る「最初の一人」=パイオニアーの困難を引き受けなければならない。自分の前に自分と似たようなことをやった人間はいない。我々一人一人こそが最初の一人なのだ。

 
 では、マイノリティが法律家=マジョリティを目指さなければならないとして、同化すべきロールモデルは何なのかというと戦士の卵である。戦士というときに英雄ものの映画やドラマ、アニメ・マンガに登場するような潔癖な人間を想像してはならない。戦士とは「通り魔的な暴力行使による他者の支配を肯定する者」のことであり、ヒューム、デリダの言葉を借りれば単なる「ならず者」にすぎない。要するに、暴力を排除し、正義を求めるのではなく、むしろあべこべに暴力を求め、支配を喜ぶ専制者にならなければならないのだ。ここであなたは動機を失うだろう。意思がくじけることをグッと堪えることだ。それは近代社会の法ではなく、封建社会の法だと思うだろう。そのとおりだ。日本は法制度のレベルではタテマエは近代的だが、運用慣習が封建的である。このことを抑えないと「法律」がいつまで経ってもわからない。日本の法律は人権ではなく専制支配に由来するのだ。少なくとも実務家はそのように扱いたがっている。
 従って、法律家になろうとするには、正義や平和を求めるのではなく暴力を求めなければならない。法律を身につけることそのものに「規範的障害」があるのだ。