両義性

 ものごとには甲乙両面があり、良い意図が悪い帰結を生むこともあれば、悪い意図が良い帰結を生むこともある。右派がリベラルに譲歩しなければならないこともあるし、リベラルがリゴリスティックな政策をしなければならないこともある。浅田氏はこの両義性について醒めた視線を持っているように感じる。

 9条の改憲は(右派から)叫ばれても、天皇制の議論は殆どなされないのは、この国の事実上の王は9条だという認識があるからだろう。政治に不満があれば当然王に批判の矛先が向けられる。しかし、経済、政治、社会の問題を論ずるときに誰もそれらが悪化しているのは王の悪政のせいだとはいわない。王に実権がないこともあるが、それ以上に前時代的なカリスマ性がなくなっているからではないか。悪政による経済の悪化において批判の矛先となるのは実務家ではなく、カリスマである。政治の悪化に際してはカリスマを取り替え、首都を移動させる。それが古典的な政治というものだ。しかし、現在の日本でカリスマとして自然に名指されるのは王ではなく9条である。これはかなり奇妙な話だ。なぜなら、9条は理念であって人ではないからだ。あるいは、理念に沿って政治を行っているとするならば、(たとえイヤイヤであっても)日本はかなり実験的なことをやっていることになる。

 中沢新一のアースダイバーを見たが、歴史時代以前の歴史に遡ってマイナーな事実、心情に迫ろうとする彼の方法が極めて興味深く面白いと思う反面、どこか土俗的な情念の癒着があり、政治的に批判しなければならないものを批判できない、批評性の欠如を感じる。歴史家としては面白いが、批評家として見ることはできない。