ガンダムシード

 デスティニーは放映中は決して評判のいい作品ではなかった。描写がフェイス・トゥ・フェイスの関係性に集中し、空間的なスケールや社会性を描けなかったからだ。しかし、描写が個人的な人間関係に集中しているからこそ描けることがある。

 劇中にミーア・キャンベルという少女が登場する。彼女は美容整形によりカリスマ的な姫君ラクス・クラインの影武者となり、戦争中の国家において男性兵士たちの人気を一身に集める。そんな彼女がひょんなことからエリート将校と食事をすることになるのだが、その最中に彼女は彼からこんな問いかけを受ける。影武者として称賛を受けているのはミーアではなくラクスだ。君はニセモノの自分が称賛を受けることに疑問を抱かないのか?本来の自分を評価してほしいと思わないのか?、と。これに対する彼女の答えが痛々しい。
 彼女はこう答える。整形前の素の自分は地味で誰からも必要とされていなかったが、現在の自分はカリスマとして万人から求められている。例えニセモノの自分であっても、多くの人から求められる自分でありたい、と。

 ボーっとテレビを見ながらこの言葉を聴いて、私は芸能人のことを思い浮かべた。きっとミーアと同じことを考えていたのではないか。
 美容整形により美しさを手に入れ、スターダムに上り詰めようとする者に対しては、私は一線を越えているかのような感覚を覚える。ドーピングしても勝利を得たいと考えるスポーツ選手のような。しかし、遺伝により美貌を手に入れた人間と整形により美貌を手に入れた人間はそれほど違うだろうか?人を美容整形へと追い立てるのは外見で人を判断しようとする社会の価値判断である。整形が悪いというならば、外見で人を判断するのをやめればいい。彼/女は社会の需要に自らを合わせただけだ。また、程度の差はあれ、整形も、キャリアや金銭も、手段が違うだけで、虚栄によって衆人との差別化を図ろうとする点は同じである。そう考えると、整形やドーピングを悪のように考える自分や社会が間違っているのであって、整形により人気を得ようとする芸能人も、ミーアも社会の評価に忠実なだけだとわかる。思えば、ドーピングも美容整形も医療技術の発達がもたらした事態であり、要するに我々が医療テクノロジーの作り出す現実についていけないだけなのかもしれない。
 アニメを見ながらそんなことを考えた。