若手論壇人への違和感

 我々は日常生活を送る上でプライベートな細々とした問題に拘泥していて、政治、経済、社会を大きなレベルで見たり、関わったりすることができない。そのために代理人として後者に関わるのが政治家、前者に関わるのがジャーナリストや知識人だ。後者については空洞化が起こって久しいといわれるが、前者についても私は代理人を見つけられないでいる。40代〜20代の論客の関心がドメスティックでメジャーなものに極限されているからだ。彼らは周縁でクリティカルなことをいっているつもりでいる。疎外論よろしく、最も外部に遠ざけられた者が最後の一撃として語っているのだ、と。しかし、その言葉はおそろしく退屈でつまらない。理由は彼らの言葉がマイナー・マジョリティの磁場に吸着されていて、マイノリティの問題に一つも触れないからだ。
 ゲイでないにも関わらず、私がゲイの論客の分析に明晰さと共感を感じるのは、彼らがマイノリティの視線から分析を行っているからだ。世代論、ジュブナイル・カルチャー、朝日・岩波批判を展開する論客はことごとく退屈であくびが出る。彼らの政治意識には外部がない。だから容易にマイナーな右翼と化する。エスタブリッシュメントに対抗しているつもりでも、外部に対しては抑圧者にすぎないことの自覚がない。彼らのこの居直りがなくなることは困難だろう。居直りがなくならないことを前提にものを考えなければならない。
 マイノリティは自らの代表者を容易には獲得できない。従って、自らが知識人となって自らの代表者でなければならない。これが負担だ。