帝都物語 第四番

 帝国陸軍占領下の満州GHQ統治下の日本の話。面白いのだが、読み終わってみると中身が何もないので苦笑する。それもそのはず、これは都市を主人公にした小説で、人の行動を描くものではないからだ。魔神加藤も都市のオカルティックな様相をあぶり出すレンズであって人ではない。してみると、これは都市と女、生殖能力を持たない老いた男たちだけが出てくる物語であり、オタク小説の元祖の一つといえるかもしれない。
 オタクカルチャーには主体がない。
 以前、エロゲーをプレイしたときに、自我の批判以前に意識が自我に到達しておらず、話が母子関係的な閉域に閉じこもっていることに閉口した。他方で、背景美術だけは名所・旧跡や近代建築を使い、隅々まで意識が行き届いており、そのアンバランスさに首を捻った記憶がある。彼らの作品に人間の衝突がないのは、それが小児の夢想(イマジネールな子宮的世界)だからだ。帝都物語はアダルト・テキスト・ゲームと完全に同じ構造をもっている(要するにポルノ小説)。こうした、都市環境だけがあって歴史や自由を持たない、欠損をもったスタティックな世界だけがオタクに見える世界なのだろう。そこでは社会とその基盤となる生殖能力が暴力=妖怪となって現れる。これは外側から眺められた社会だ。人間は空間を通過する力線であって、筆者も読者も彼らの質量をつかまえられない。彼らは他者として街を通過し、街には人と妖怪との格闘の歴史としての力線の束の痕跡だけが残る。これは不能者の見る、エロティックでグロテスクなアクアリウムの物語なのだ。

 例えば、加藤は溥儀の前で関東軍の破滅を公然と予言するが、アメリカ占領軍の没落は予言できない。アメリカは唯一の超大国として現在まで残っているからだ。ここには徹底的な後出しじゃんけんしかない。荒俣宏ははそうした死者たちの踊りを喜んでいる。
 この作品が単に自省を欠いた人形遊びならば問題にならない。しかし、帝都物語は違う。この作品が絢爛豪華なテーマパークとして我々を楽しませてくれるのは、フィクションの意識が徹底されているからだ。我々はディズニーランドを散歩するように新京や占領下の東京を見物する。
 

 都市で活動するのはなぜ女と老人でなければならないのか?帝都物語ではマイナーポジションにある者だけが描かれる。恵子、由香里、雪子の辰宮家の面々には基本的に何も起こらない。つまり、この話には政治能力を持った者が一人も出てこない。これは休日の公園で行われる見せ物小屋の遊戯なのだ。しかし、これほど見事な見せ物小屋はない。