雑記

 柄谷行人吉本隆明に対してジャルパックでいいから海外に行ってほしい、外に出ることだけで視野が変わるといっていたが、全くそのとおりだ。日本の政治・経済圏の外に出るだけで視野が拡がる。常識が偏見にすぎないというデカルト的な発見を知る。視野の拡がりは思考を深める。自分のアドバンテージは努力して得たものというよりも、単に幼年時代にその環境で育ったというだけのものだ。しかし、たったそれだけのことが余人には得難い。私はブレード・ランナーのロイのように、「お前たちが決して見ることがないものを見てきた」のだ。それはゲイについてもいえる。彼/女たちは努力してゲイになったというよりも端的にゲイなのではないか?もしかしたら、努力して懸命になったという人もいるかもしれないが、端的にゲイという身体的な条件の下に生まれただけのように感じる。彼/女たちはその身体的条件の下で生きていかなければならない。単にそのことがヘテロとの間にパララックス・ヴューを生み、それが社会への批評性となる。
 メジャーに対して単に外部を知っていること。たったそれだけのことが鋭い批評性の契機になる。外部を持つことが人を明晰にするのだ。

 国境を持たない島国の人間は閉鎖的である。閉鎖的であるという意識すらない。そのことが自分の苛立ちの原因となる。しかし、同じことはセックスについてもいえる。性の境界を越境しないヘテロセクシャルは閉鎖的である。閉鎖的であるという意識すらない。そのことが変態(!)たちを苛立たせる。

 そう、倒錯とは多様。安定は偏狭。

 単に外部を知っていることが、単純なことについて人を吃らせる。快調な行動には吃りが足りない。
 マジョリティとカウンターマジョリティには吃りがない。彼らは常に快調且つ退屈だ。

 マスとマイナーを分ける必要がある。