リアル〜完全なる首長竜の日〜ゲイの少年の初恋

 黒沢清監督の映画。黒沢監督はホラー映画の監督であり、基本的には観客の嫌がることをやって喜ぶ人である。つまり、彼は好きな女子児童のゲタ箱に小動物の死骸を入れて、その子が驚いたり泣いたりするのを見て喜ぶ男子小学生である。

 物語は複雑な構造をもっていて、また、映像もメリハリがあって面白い。キネ旬等の批評は印象批評が多く理論的内容に触れないので一言。
 以下ネタバレあり。

 映画のキーになる少年モリオは同性愛ないしは性同一性障害ではないか。劇中で彼は島に転校してきた浩一が子供たちのマドンナである淳美を奪ったために浩一に嫌がらせをした、と解釈されているが、そうではない。マドンナを奪われた少年はモリオのような振る舞いをしない。映画で描写されているモリオの振る舞いは性的対象とうまく距離がとれないために生ずるいらつきと煩悶である。
 そう、モリオの執心の対象は淳美ではなく浩一である。つまり、これは若いカップルが愛情により過去のトラウマを乗り越える物語ではなく、都会からやってきた洗練された少年に、離島のゲイの少年が一目惚れをする物語なのだ。浩一に一目惚れしたモリオは彼を口説こうとするが拒絶されたためにストレスを蓄積し、過激な行動に出て事故死してしまう。そして、死後も主人公にとり憑いて、異形の者=首長竜となって暴れ狂う。これを、強烈な母性をもつヒロイン淳美が祓って、秩序=ヘテロセクシャリティを取り戻す(この映画は御祓いと精神分析治療の双方の図式に従っている)。

 yahooの映画評を見ると「わからない」という感想が多い。本作はキーワードが隠され、物語のネガ・ポジが反転されているから、観客にとってわかりにくいはずだ。しかし、構成は実は単純で、同性愛者の少年/少女の片思いが破れる悲恋をSF、ホラー、モンスター映画の手法で描いているだけである。同性愛とパラレルに、初恋・片思いものとしての構造を反転させて、片思いの対象(想い人)となった浩一の視点から後日談として描くから観客が感情移入しにくいのだ。これが普通のアイドル映画で、売れっ子のアイドルがヒロインのモリオ(ルミ)を演じ、片思いを成就させるために奔走する内容であれば、誰もストーリーに距離を感じないはずだ。もちろん淳美はおじゃま虫である(構造的にはストーカーものの『道成寺』である)。
 キーワードが明かされ、ボタンの掛け違いが解消されれば物語は明瞭だろう。殆どの観客がキーワードを見つけられないのは、彼らが同性愛に無知かつ無関心だからだ。
 認識がないことにより起こる抑圧は深い。

 この映画が一貫して不穏なのは最初はフィルムがゲイのヒステリーにとりつかれているからであり、最後は追い払った憑きもの=首長竜の正体が分からないからだ。モリオが浩一と切り返しショットで見つめ合いながら愛を告白するシーンがあれば、この映画が恋愛物語だとはっきりわかる(勿論、そんな親切なことはやらない)。病気が癒えても、ヘテロ=正気に戻った浩一は単にヘテロカップルとしての安定性を得ただけで、自分がゲイのモリオを魅惑した両性具有的な魅力の持ち主であることに未だに気づいておらず、従って、モリオがゲイ・トランスジェンダーであり、モリオの自己への執着が恋愛感情であったことを理解していない。そのために映画はフィナーレにおいても消化不良感が残り、観客は謎が明かされきってないモヤモヤした感覚を覚える。

 黒沢監督は同性愛映画である本作を最後までキーワードを隠して描く。それは、この映画において浩一と観客の二者に対して同性愛への無知と無理解を突きつけるためである。殆どの観客はゲイの恋愛のシェーマを認知していないし、第二次性徴前の子供が本気で性愛感情を持つとも思ってない(肛門性交は第二次性徴を待たずに性的な意識を目覚めさせるが現代日本にこの点についての了解はない)。だから、モリオの浩一への恋愛感情は不穏で不可解なものとされてしまう。いうまでもなく、この無知と無理解こそがこの映画の最大のテーマであり、かつ悲劇である。
 
 本作は成人した男女である浩一と淳美の物語なので、扶養者にスポットは当たらない。しかし、本来ならば少年時代の浩一たちの生活は扶養者によって制約されている。早熟な同性愛者は性のコードだけでなく大人−子供のコードからも外れ、二重の掛け違いに直面する。モリオは個人として浩一に向き合いたいので冒険的なことも行うが、浩一はあくまでも少年らしく、子供の行動規範のみで活動する。カップルとして世帯を作りたいモリオは性、経済、社会、年齢、何よりも浩一自身の好意、と少なくとも5つの壁に直面する。

 キャスティングについても述べておこう。浩一がゲイを魅惑する存在であるという点で、佐藤健のキャスティングは当たっている。浩一は松重豊のような長身の男性ではなく、平均身長程度の抱きしめることのできる身体でなければならない。その意味で佐藤は浩一役にうってつけだ。少年のモリオは少年の浩一に恋をしたのだから、彼/女の好みは細身で元気のいい、かしこい少年である。若い佐藤健はこの条件にぴったり当てはまる。公開当時売れっ子であった綾瀬と佐藤をキャスティングしていたため、コアな映画ファンからは商業主義路線と妥協したか?と騒がれたが、単に物語の必要からなされた的確なキャスティングというべきだろう。
 また、ラッパー、映画評論家の宇多丸氏は綾瀬はるかについて、黒沢作品のキャストとしては綾瀬は健康的すぎるのではないか?といっていたが、ゲイのヒステリーにとりつかれた男を正気に戻す物語なのだから、治療者は「健康的」な女性でなければならない(※1)。上品でありながら身体のラインのわかる服装で綾瀬はるかの体格のよさを見せ、且つ、その身体がダイナミックに運動する場面を映すことが必要なのだ。

 ついでに言及すると、モリオの存在が浮上するアナグラムの解読について、単純すぎて拍子抜けしたという評価が多いが、これはモリオの死という明白な事実を浩一が無意識の領域に抑圧していることを示す場面なので、アナグラムは単純でよい。単純で身近にあった事実を思い出せなかったということを示しているのだ(MORIOモリオ→ROOMIルミのアナグラムは男から女への変化をも示している。むしろ浩一の描くマンガのタイトルである『ROOMI』がモリオが少女であることを既に示しており、浩一が無意識にそのことを知っているということがここでの本当の謎解きではないか。黒沢監督はいじわるな見せ方をしている)。

 そういえば、映画では淳美が姉から恋人に変更されたそうだが、ホモ・セクシャリティに接したことのヒステリーから浩一を回復させるのが肉親の女性であると近親相姦で別のヒステリーになるので恋人への変更は正解だろう。それは母親には見えない(母性愛に縁のない)小泉今日子が母親役を演じていることにもいえる。ホモネス(同一性)のヒステリーにかかっている浩一を治療するためには治療者は家族の外部から来た者=他者でなければならない。姉、母が弟、息子を取り戻す物語では自由が生まれない。安心してセックスができる対象が自己のために献身してくれることが重要なのだ(そう考えるとエゴイスティックだな)。
 浩一の母と淳美の父、家族を登場させたことは、彼らが未だに少年時代をひきずっていることを暗示する意味でうまい演出だ。


 ホラー、同性愛、精神分析といえば80年代に一般化したテクニカルタームだ。黒沢清映画は若かりし頃に吸収した知的エキスを瑞々しいまま現在に伝えている。

(※1例えば、『seventh code』の主演である前田敦子(というよりもこの映画が彼女のプロモーション・ビデオを膨らませたもの)を宇多丸は綾瀬よりもクロサワ映画に向いているといっているが、この映画で必要なのはホラー映画向きのミステリアスな女優ではなくゲイ/ヒステリーをキャンセルできるヘテロセクシャルな健康さを持ったセクシー女優である。仮に主演の佐藤と実生活でもちょっとしたスキャンダルのあった前田をカップルにした場合、前田のもつ清姫パラノイアは全く治療に向かず、むしろ病状を重篤化させるだろう。綾瀬はるかはセクシー女優と呼ぶには幼すぎるが、パラノイアがなく肩幅の広い古風な体つきはヒステリーの治療にうってつけである。


ムービーウォッチメン
http://www.youtube.com/watch?v=_oFw0gLlVkQ