雑記

 経済成長から成熟社会へというベクトルが21世紀の日本の経済政策の軸になることは間違いない。ただ、若い論壇人は成長の終焉が国家のパイの再分配の縮小の言い訳に使われるため、脱成長論への反発があるようだ。それはいい。彼らが成熟社会を叩くのは未だそのビジョンが明確でないからで、成熟社会の到来を装いながら「もう経済成長はないから自家発電で生活しろ」というのは右派の論理である。成熟社会は単線的な経済成長の終わりを説くものではなく、新たな社会のあり方を呈示するものだ。そのビジョンが曖昧だから、苛立ちが生ずる。
 この問題を解決するのは新たな成長戦略の発見ではなく、経済成長そのものの批判である。欺瞞的な均質性を多様性の粒へ分解する必要がある。
 要するに多様化はまったくなされていないのだ。

 右派は自由と福祉のためには予算がいるという。だから、自由と福祉を増やすためにはパイの拡大が必要だ。それがないのだから再分配はないとなる。彼らは自由や価値の内容を変えることができない。創造的な力がないからだ。より大きな贅沢、より大きな虚栄の満足を価値とすることが「自由」である。
 結局マルサス主義なのだ。
 日本の若い論壇人はテレビ、ラジオ、雑誌でしゃべりたいという欲望が先行していて、歴史的な議論の検討をないがしろにしている。再分配と予算をめぐる論争をするならマルサスとゴドウィンの議論はトレースしていないといけない。成長がないのだから低賃金で我慢しろというのはマルサス主義である。

 コンピューターゲームボードゲームを再現したとき、抽象性が消えてがっかりした。コンピューターの登場は人々を抽象性へと向かわせ、社会は容易に知性を獲得するように思われた。勿論そんなことにはならず、幼児退行と情報管理が生まれただけだった。これをまとめたのが東浩紀氏の『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』である。ボードゲームが面白いのはそれがロジカルだからではなく、ロジカルな手続きが抽象的な世界把握を生み出すからだ。一見貧しく分節化された手続きがコスモロジーを獲得する。その瞬間がなければゲームは無意味である。