アキハバラ電脳組

 90年代に発表された大月俊倫プロデューサーの4部作中で、現在でも最も新鮮に映るのがこの作品である。女子児童がふわふわしているという、ただそれだけの作品であるが、(であるがゆえに)印象が変わらない。
この頃に東浩紀氏がジャック・デリダについての博士論文でデヴューする。この論文のキーワードの一つが誤配・遅配だったが、私がアニメを見るのはこの頃の東氏のインパクトによって生じた誤配である。その誤配の中でも本作は私の最も受け付けないアニメ絵と愛玩物(たまごっち、ポケモン)、魔法少女、格闘マンガと、黙示録的最終戦争とフェミニズム(要するに娘−母子関係と政治闘争、子供番組とカウンターカルチャー)をミックスしたカオティックな内容だった。社会現象となり、ポスト・ガンダムのランドマークとなったエヴァンゲリオン、最も優等生的(大衆的に割り引かれた多様性=コーポラティズム、温情的な保守反動)な秀作であるナデシコ、アングラ演劇とマルクーゼとフェミニズムのウテナ等と比べると荒さが目立つ。前三者が大学生向けの内容なのに対して、電脳組は小学生向けに見えるのだ。しかし、最後まで印象に残ったのは電脳組である。大月4部作の中で最もオタク寄りに思えるこの作品がなぜ印象に残るのか?子供の世界は政治の影響が未だ及んでいないために作品に欺瞞が少ないからか?
 どの作品に一番批評性があるか、電脳組が一番批評的なのか?と問われると悩ましい。他の3作も全て政治劇であり、主人公を少年、あるいは少女にすることで支配・被支配関係の自明性を疑い、政治構造をズラしている。政治的な世界の構造を示した上でそのリミットを探求する点では全ての作品が共通する。大月氏の手がけた四部作は革命四部作である。勿論、『エヴァンゲリオン』と『ナデシコ』が代議制(の克服としての右翼クーデター)を扱い、『ウテナ』と『電脳組』がフェミニズム(マイノリティ)を扱っている点で作品カラーの対立はある。

 メジャーではなくマイナーという意味では後2者が私の好みに叶う。このうち、『ウテナ』も好きだが『電脳組』のほうが長く印象に残るのはこちらのほうが描かれている女性が等身大の姿に近いからだろうか?急いで付け加えておくと、この判断は『少女革命ウテナ』の評価を下げるものではない。むしろ私が政治的に保守的であることを疑わせるものだ。しかし、思い切っていってしまうならば、言語をレンガのように積み重ねるのとは別のヴァーチュアルな存在論があるとしたら『電脳組』で描かれる少女たちのようなものかもしれないと思うのだ。それは少女に限らず全ての女性、マイノリティに当てはまる。
 もちろん、電脳組は自意識と政治を獲得する前の幸福な幼年時代のポートレートにすぎないかもしれない。しかし、ヘタな言語化によって凡庸になるよりよほどいい。アニメ中の登場人物たちを個性的にしているのは彼女たちの存在にマイナー性が持続しているからだ。それは幼児性、あるいはセックス、女性性である。外国や歴史の出てこない本作ではエロティックな絵柄と露出の多い服装の問題も相まって、話がセックスに集中する。少女を主人公にしたセックスの話となると、他者のいない自己中心的な話になりそうなものだが、そうならない。その理由は彼女たちがマイノリティに「成っ」ているからか?良くも悪くも差別=社会の誕生を描く前3者に対して差別と戦っているように見える...か?そんなに違うかな?
 しかし、アニメ界から誤配された作品が何かといえばこれだと思う。
 他者に出会ってなくても多様性を描くことはできる。他方で、他者と出会うことで硬直すれば、多様性は挫折する。

 無知な子供のままでいるのではない。今日初めて知った差別=社会の秘密に対して、「子供(のよう)になって」戦うのだ。


(※)余談だが、法学部の学生は右翼になりやすく、経済学部の学生は左翼になりやすいのだろうか?「ナデシコ」は社会の構造を顕微鏡的に様々な観点から見せてくれる。その様子は普段は開かれざる社会の窓が次々に開かれ、世界の秘密を自分だけが知ったかのようで気持ちがいい。しかし、ここには外国がない。謎の敵「木星連合」は端的に日本の超国家主義者であり、外国ではなく戦後民主主義の下に隠された大衆的な欲望である。つまり「ナデシコ」で描かれているのは閉じられた内面のドラマであって、自らを相対化するパララックス・ヴューは最初から存在しない。それは元々このアニメがオタクB級SFマンガを原作にしていることにも由来するし、また、内面のドラマにすぎないからこそ敵−味方という野蛮な世界を娯楽として葛藤なく描ける。主人公天河アキトはナイーブなナショナリストであると同時に戦後民主主義の理念でもあるが、彼の理念は身についておらず、理想を語る天河の姿は嘲笑的にしか描かれない。逆に、敵である不寛容な独裁国家木星連合からやってきたエリート(旧制高校的エリート?)白鳥九十九の言葉によって多様な存在の共存共栄(コスモポリタン)の理想が語られ、天河は主人公としてお株を奪われてしまう。
 要するに、佐藤は戦後民主主義を軽蔑している。彼は理念を嘲笑しているのではなく、理念を担う政治体を侮蔑している。彼は理想をストレートに語ることはできないが常に気にしているシニカルな主体である。その背後にはおそらく三島由紀夫の影響(『文化防衛論』)があるが、三島と佐藤で決定的に違うのは、三島は昭和天皇を軽蔑し「鼻をつまんで生きて」きた(古代的な戦士の長としてのみの天皇の礼賛)が、佐藤にとって戦後は昭和天皇の恩寵として現れた部分のみ肯定すべきものであることだ(反米愛国主義と対米従属のカップリング)。つまり、シンメトリーがあるように見えて、両者は思想的立場が異なる。
 佐藤竜雄シニシズムは「まだマシ」というべきか、やはり「たちが悪い」というべきか。シニカルな主体は「政治意識の高い」「日本人」に多く見られる症例である。いうまでもなく、シニシズムナショナリズムである。マジョリティのシニシズムの淵源は敗戦が中途半端であったために彼らが敗北を認められないことにある。責任者が責任から逃げたためにプライドを燻らせてイラ立ちを隠せないマジリョティは戦勝国アメリカの政治矛盾に毒づくが、大日本帝国が太平洋西南岸を蹂躙した事実には目を向けない。過去の占領の事実から目を背け、被支配への大衆的な反発だけを意識化することでシニシズムの世界は成り立つ。あくまで責任の対象を描かずにシニカルな茶番だけを描くのは、要するに政治理論を拒絶したいからだ。これではどこまでいっても自己を外部化できない。そして、佐藤竜夫のこの作風はその後も一貫している。彼が黙説法の中に封じ込め、諸作品の虚の中心としているものは何か?いうまでもなく象徴天皇制の礼賛である。
 対して、アニメーターの後藤圭司の作品はマイノリティに焦点を当てた作風となる。