歴史の終わりと世紀末の世界

フクヤマ「ブッシュ陣営のエコノミストたちは古典的な市場法則が決める比較優位に従っている限り、アメリカがコンピューターチップを作ろうがポテトチップを作ろうが
     同じことだと言い続けていました(笑)同じ富が得られるならコンピューターチップを作ろうがポテトチップを作ろうが構わないなどという日本人を私は想像で
     きません。」

 このパッセージは一見すると空疎な形而上学=経済学に耽るアメリカの資本家が勤勉で職人的な日本の資本家に敗北する(した)という意味で日本を持ち上げているように見える。フクヤマ日系人であることがそのような期待を後押しする。しかし、実際に意味するところは日本企業は産業資本主義段階にとどまっていて金融資本主義を理解していないということであり、フクヤマの談話はジャパン・アズ・ナンバーワンを裏書きするものではない。実際に2000年以降のグローバル化によって世界を席巻したのは投資ファンドらの金融資本主義であり、この点において日本は(よくも悪くも)蚊帳の外になった。


ボードリヤールコジェーヴスノビズム
 物質的充足(アメリカ)がエンド(目的=終わり)を持つのに対して、支配欲から発した虚栄のための差別化はエンドレスであり、その極点において日本人は単に差別化ために(自己と他者が違うということを示す(あるいはそのことによって相手を支配する)ためだけに)自殺する(切腹をする武士と特攻隊は命令者に抵抗することなく自殺する)。エンドレスな差別化によって成り立つ世界において最も価値を持つのは差異のためだけに行われる自殺であり、それは自由、自己実現、人生の肯定といった価値とは何の関係もない。単に無価値なものが最も価値を持つとされる、極限的な価値倒錯である。
 歴史を人間が自然を克服し人工によって自由を実現する前進運動として捉えた場合、前進運動の終わりは自由の獲得と関係のない差異のためだけの自殺を価値の頂点とする世界として現れるのではないか。そして、日本こそは自由を実現しきって何一つ歴史的に求めるものがなくなったがゆえに、端的に他者と異なる自己の実現だけを価値とし、その結果としてすべての国民が無意味かつ無償で自殺をすることを可能にした絶滅(エクスターミネーション−進歩の終わりは種の絶滅)へ向かう前段階の人類のあり方を示している。これこそが人類進歩の最先端のあり方を(アイロニカルに)示したものだ。

 こう書くとスノビズム論はオリエンタリズム以外の何者でもないな。
 しかし、オリエンタリスティックに蔑視されても仕方ない部分がある。無意味な自殺を頂点とし、全ての市民が無内容な自殺をする社会は自由への希望を失い種そのものとして絶滅するほかない社会である。日本人には自殺が強要されているが、それが無意味で自由に反していることが隠されている。彼らは自由を享受しきったから自殺するのではなく、自由を知らないから自殺するのである。日本的スノビズムは被支配者の抵抗をトリミングする巧妙な支配技術である。スノビズムポストモダンの統治技術だという意味では日本的スノビズムがポストヒストリカルな世界を象徴するという主張は正しい。
 我々は虚栄によって自殺を強要される狂った社会に生きている。

 生物は進化する。進化が終われば種は絶滅する。アメリカが進化の終焉により訪れた小春日和を生きているとすれば日本は一歩進んで人類の絶滅に向けて全ての国民が進んで無意味な自殺をする段階に達している。コジェーヴの論文は要するにそういうことである。
 率先して絶滅への道をいくことこそが価値なのだ。勿論、これは倒錯にすぎない。実際には政治的に敗北したから追い込まれるのであり、敗北を想像的に逆転するために絶滅を指向するという嘘が生まれる。抵抗するなり逃げるなりすればよいのだ。単純に日本には自由がない。暴力と恐怖の支配する国だからだ。

 
 しかし、アイロニーによる逆説的評価だったはずのコジェーヴボードリヤールスノビズムはむしろポスト冷戦の非−出来事の世界で一定の地位を占める。イスラム原理主義者による自爆テロである。コジェーヴは自殺攻撃を生の原理に反し、人類の存在意義を覆す全く無意味な行為とアイロニカルに評したが、実際にはアメリカのテクノサイエンスの圧倒的な優位に対して一定の抵抗になっている。スノビズムは無価値なイデオロギーではないのだ。そして、にもかかわらず、同時に浅田氏のいうとおり、そこに歴史的な価値を見いだすべきではない。なぜなら、完全にメンツのためだけに無意味な死を受け入れる人間などというものは存在せず、コジェーヴの主張は理論的なフィクションであり、また、欧米とイスラムの対立はスノビズムの実現という文脈とは別のレベルで考察すべきだからだ。
 つまり、二つの問題を批判しなければならない。南北問題における北の搾取に対する南の倒錯的ともいえる抵抗を単にスノビッシュで無意味な行為と見ることは間違いである。そこには倒錯に至るまで追い詰められる現実の矛盾がある。他方で、スノビッシュな抵抗に過剰な意味を見いだすことも間違いだ。それは絶滅の前段階にある新たな人類の形態などではないし、ましてや称賛すべき新しいライフスタイルでもない。単に自由が抑圧されているが革命−勝利の展望がないがゆえに倒錯的な形で自己肯定が生じているだけである。スノビズム神経症の症候にすぎない。