雑記

 マイナーな世界以上に世界が広がることはない。あるいは、マイナーな世界を描くことこそが文学=聖書の根本的な価値である。自己完結的なものとしてのマイナーな世界を掴むこと。
 シルベール・ロトランジェがいうように、流行の一歩手前でマイナーさに止まること。それが自由を追求する際のコツである。

 『おおかみこどもの雨と雪細田守監督
 最初見たときは否定的な印象を持ったし、その判断は正しいと思っている。振り切れていない作品なのは確かだ。しかし、多少考えが変わった。この作品の花は良くも悪くも女性の等身大の姿だ。彼女は理想の女性像からはズレている。偶然で生きていて、行動に理論的な芯がない。しかし、それは女性的であろうとする者の素直な姿である。彼女は子宮でものを考えているのだから、理論を求めるのは間違いだ。夫に対しては女で、娘であり、子供たちに対しては母であろうとする。それだけである。そんな女性が感じるままに幸せを追求しようとした。
 彼女に政治性はない。しかし、彼女を否定するリゴリズムは間違っている。この作品にアレルギーを示すのは、ここに政治性が欠如しており、そのことが日本の言説空間の無責任さにシンクロして見えるからだろう。しかし、言説空間の無責任と彼女の生き方は関係がない。これはマイナーなファンタジーだ。政治的な批判=主張は単に明確に行えばよい。
 細田監督は宮崎氏の『風立ちぬ』にいたく感激したというが、道理である。奈穂子と花は等身大の美しい女性という意味で殆ど同じだからである。

 元はといえば、ネット上で富野由悠季氏が称賛していたのを見て映画館へ足を運んだのだが、富野氏はあまり構築的な部分は見ないのだろう。最初から(男性が)女性視点で描いたマイナーファンタジーとして見ていたのだろう。