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 95年にウィンドウズが発売された当時はただの原っぱだったインターネットが20年の時を経て広告と排外主義と政府見解に埋めつくされた。國分功一郎氏がツイッターで今上映中の相棒でインターネット言論を操作する謀略について扱っていると書いているが、ただの空き地がこれだけ均質化された空間になるためには上からのコントロールが必要である。元々CIAの作ったものだし、インターネット上の言論と経済はコントロールされていると考えるほうが無難だろう。

 それにしても、ここ数年の私的、公的なレベルでの排外主義的言説の氾濫は目に余るものがある。30年代のようにスパイ機関が謀略によって対立を人工的に作り出しているかのように感じるくらいだが、そうだとするとマンガとしか思えない。政府の排外的な移民政策、さらにはそれを有効に批判することすらできない無能な弁護士たちの成果もあって、日本で暮らしているとビジネスと学校以外では隣国である中国、韓国の人々とすら出会うことは少ない。いや、商店での買い物を通じてはコミュニケーションをしている。が、それ以上のものはない。つまり、憎悪をかきたてられる要素は一つもないのだ。むしろ、在日外国人は日本での暮らしが外国人に対して複雑で差別的なことに憤り、あるいは意気消沈しながら生活している。私は彼らに後ろめたさを持つくらいである。町山智浩氏が白竜氏の歌をかつて紹介していたが、歌を通じて屈折を訴えなければならないのは日本で暮らす外国人のほうだ。日本がアジア諸国に憎悪を持つことに合理性はない。にも関わらず、インターネット上だけでは攻撃的、挑発的な言説が溢れている。国内の経済矛盾を国外へ向けることで人々の政治への不満の矛先を散らすのは政府の常套手段である。しかし、それがこれほど露骨で大規模に展開されるとノンポリから一時離脱して政治的であらねばならないと考える。

 日本には政治家がいない。普遍的な理念を掲げてそれを貫き通しルール=言語に則った判断をする人間がいないのだ。専制支配への屈従に慣れた利害調整者しかいない。我々はいまだにポール・クローデルが指摘したように「普遍的理念の実現に邁進するのに不向きな民族」である。

 東アジアにコントロールできるレベルの対立と紛争を作り出し、めしの種を得て贅沢をしようとしている人間がいるのではないか?原っぱが町になり、ファシズムへ突進するというと戦前の満州国を思い出す。上述のマンガ的なスパイを思い浮かべるのは、現在の状況がかつての30年代に似ているからだ。日本の満州国建設については何よりも植民地主義について、さらには謀略の問題まで含めて日本には大きな責任があるが、そこには多民族国家や歴史的な因習に縛られない新しいチャンスの到来、つまり人類のフロンティアを切り拓くという建前もあった。勿論これは、満州人、モンゴル人、朝鮮人漢人を犠牲にした上での話であり、しらじらしい嘘である。しかし、同じ構造がインターネットにおいても繰り返されている。例えば、インターネットの普及によって確実にセクシャル・マイノリティ、同性愛、性同一性障害への認知と理解は深まったが、その効果は国家、資本、大衆の欲望に比べるとはるかに小さい。大きな力を持つのは排外主義と潜在的な戦争のプロパガンダのほうである。国家は常にマイナーなものへ機会を与えるという大義名分を前に出しながら、結局は大きなものがより大きくなろうとすることをサポートする。電話線や無線は領土を持たないために植民地主義の犠牲者が存在しないように錯覚しがちだが、搾取なしに利益は生じない。地道で良心的な取引は資本家を興奮させない。形式的な空間に差異がないなら、人は人為的に差異を作り出す。

 東アジアは30年代の中国のようになるのだろうか?ナショナリズムと資本主義と軍隊と悲劇と矛盾が坩堝で煮立てられる時代。あの混乱と悲惨の時代がまた訪れるのだろうか?柄谷行人国家主義に抗えるのは「単なる自由主義者」だとかつて指摘していた。歴史を振り返るとき、まさにファシズムの猛威に独立性を保っていられるのは自由主義者=強い垂直的な言語性を持つ者だけであった。私はどこまで自由主義者新自由主義者でいられるだろうか?

 今聞くとゲームミュージックにしか聞こえないが、混乱の30年代をイメージさせるのにこの曲ほど相応しいものはないのではないか。ラストエンペラーの作曲依頼がくることに納得する。


http://www.youtube.com/watch?v=Q7Y3Cl4cnr4

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