歴史の終わり?
ウォールストリート・ジャーナルにフランシス・フクヤマの論文が掲載されている。
1989年に発表された論文の中で彼は資本主義経済と議会制民主主義で人類の進歩は終了し、冷戦の終了により世界はソ連型の共産主義ではなくアメリカ型の資本民主主義を模範とするようになると主張した。浅田彰が編集した『歴史の終わりと世紀末の世界』はこのフクヤマ論文への批判として編まれたものである。そこでの浅田の言説はよくも悪くも抽象的な批判に終始し、具体的な主張はなされない。これは浅田の常に変わらぬスタイルだが、今にしてみるとこれで良かったと思うし、今でもそうすべきなのだろう。
フクヤマは現在でも変わらず「リベラル・デモクラシー」こそが最良の政治体制であり、これを超えるものはないといっている。あえてライバルを探すとするならば、それに当たるのは中国くらいだが、それは単に経済発展によって国力が増しているからにすぎず、中国の政治体制には哲学的な基礎がないから結局アメリカの脅威にはならず、21世紀前半もアメリカによる一極支配が続くだろう、という見通しだ。
大筋で正しい分析だが、理論的には要するにヘーゲル的な世界精神であるアメリカン・デモクラシーがパワーによってそれを実践するという単純な主張である。
しかし、論文中で彼はこうも書いている。
民主主義国家が生き残り、成功したのは、人々が法の支配や人権、政治の説明責任のために戦うことをいとわなかったために尽きる。そのような社会の実現に欠かせないのは、指導者の能力、組織の能力、そして他ならぬ幸運である。
この点についてはフクヤマの主張に傾聴すべき部分がある。日本の民主化が遅々として進まないのは、要するに指導者がいないからだ。幸運や組織の前に、我々にはオピニオンリーダーがいない。フクヤマの主張を欺瞞というのはたやすい。共和党(ブッシュ・シニア政権)の政府高官であった彼はむしろ支配者として権利を制約する哲学を語る。彼の語る「法の支配」と「人権」は割り引かれた手形である。それでも、人権と法の支配を最高の価値だと主張することそのものが、権威主義と政治責任の転嫁のスワップによって成り立つ日本の「無責任の体制」からすると革命的な意味をもつ。我々はそのくらいに遅れた政治社会を生きている。
※1 それにしても、ここで彼が描いている中国の姿はそのまま日本の政治体制にも当てはまるが、これは2000年以降右傾化を続ける日本へのアイロニーだろうか?政治体制の左右の違いはあれ、政体構造がまるで同じであることに苦笑するほかない。勿論、アメリカにとっては共産主義だろうが王政(天皇制)だろうが、アメリカを脅かすものが敵だということなのだろうが、悲しいことにその程度の動機からなされたはオリエンタリズムともいうべきこの分析は的を射ているのだ。
(勿論、アメリカだけは政治に必要な全てのタスクを実現したという傲慢さは相変わらずだ。いや、これはアメリカの傲慢さではなく、近代社会のマジョリティ全ての傲慢さなのだろう。それは加藤周一が批判が難しいと指摘した現代的な支配者の姿でもあるのだろうか。)