華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある。


二月に一度のダイアリー更新(一月しか経ってないけど(笑)。

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 先日、横浜美術館で行われている横浜トリエンナーレ2014へ行ってきた。展覧会はアーティスティック・ディレクターに森村泰昌氏を迎え、同氏の全面的な監修の下に行われる。ホームページ(http://www.yokohamatriennale.jp/2014/director/index.html)の挨拶欄には以下のような言葉があり、森村氏の自信の高さが伺える。

「行き先は未知である。しかし横浜から舟は出港した。その船長が私だとしたら、正直なところ、舵取りはかなり危険である。」

 英雄的である。普段、引きこもって昼夜逆転と戦いつつ(しょうもない)法律の勉強しかしてない私には永遠に手に入らない美しさだ。彼のこの言葉に惹かれてみなとみらいの埋め立て地区まででかける。

 京浜急行日ノ出町駅で降りて、てくてくと30分ほど?歩いて勝手知ったる横浜美術館へ。クイーンズ・スクエアを抜けて横浜美術館へ着くと、建物正面にヴィム・デルボアの鉄でできた繊細なレース細工の疑似トレーラーが置いてある。ギムホンソックのゴミ袋のクマと並んで本展覧会の看板作品である。
 初めて見るのでひとしきりしげしげと眺める。最初は馬車籠かと思ったが、よく見るとトレーラーで、いうまでもなく実用はできない。フレームは装飾的で且つ錆びているし、タイヤまで鉄でできている。要するにこれは無駄にゴージャスで現代社会を支えるブルーカラーの道具を模した「使えないもの」なのだ。華麗な装飾への批判?あるいは、華麗な装飾が知性と結び着かず通俗的な肉体性としか結びつかないことへの批判か。そばに座るとヨーロッパの森の中に捨てられて朽ち果てた軍用トレーラーのようで弁当とお茶を楽しみたくなってくるが、そんなこともしてられないので入場券を買って本展へ赴く。
 チケット売り場の説明によると美術館だけでなく新港パークの展示場にも作品があって、一枚のチケットで二つの展示場へ行けるとのこと。新港パークは少し遠いので、午後の観覧の後にはしごするのは疲れる。そのことを考慮してか、スタンプを押してなければ新港パークの展示は後日でも見られるとのこと。長く使えるためか、チケットは凝っていて、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」という言葉の版木の写真が印刷された二つ折りのものになっている。この版木はおそらく森村氏自身の手によるものだろう。版木なので、勿論、字の左右が反転している。これがまさに本展覧会のテーマになる。

 館内では例のごとく音声解説(森村氏自身が担当)が販売されている。森村氏の解説ならば通り一遍の解説と違いきっと面白いだろうが、タブラ・ラサで現代美術に触れるのも面白い。ここは批評家の浅田彰氏の提案にのって解説なしでいってみることにする。
 そのまま入り口正面から右側のエスカレーターを登って3階の展覧会のスタート地点へ行く。休日のためか観覧者は多い。ガラガラの美術館を知っている身としてはちょっと驚きである。かといって、すし詰めで絵を見るのも一苦労というわけでもなく、雰囲気的にはいいシチュエーションだ。掲示があり、芸術家たちの小さな、静かな声に耳を傾けてくれとのこと。ふむふむ、なるほど。

 展覧会の口火を切るのはマレーヴィチとケージの作品。ここで早くも音声解説を買わなかったことを後悔する。ケージは知っているが、マレーヴィチは名前しか知らないのだ。方眼紙に鉛筆で円と正方形を書いた作品を見て困り果てる。ミニマルアートであり、これでいいということなのだろう。芸術にとって最も原始的で単純で美しい形ということだろうか?しかし、確信が持てないのでうんうんと悩む。大体、これなら中学の幾何の時間にあまりに退屈なので同じような落書きをした覚えがある(もう遠い昔のことだ)。しかし、考えてみれば不思議とあのときマス目をなぞって幾何形態を塗りつぶすのは楽しかった。
 困っていてもしょうがないので次々と作品を鑑賞する。マレーヴィチの次には有名な4分33秒の楽譜のファクシミリ?がある。貴重なものだ。初めて見るが全3楽章の指示にそれぞれきちんとTACET(だったと思うが)と書いてある。無音はなにもしないことではなく、調性と指揮があった上で無音を意図することなのだ。
 なんてことを考えながら鑑賞を続けるが、無題とされたホワイト・キャンバスや透明のアクリル板に見えないインクで署名された作品など初っぱなからハイコンテクストな作品が続き、突き放された感覚を覚える(※1)。浅田氏は解説なしでいけというが、森村氏が丁寧な解説を付するのも無理はない。とにかく前へ。マグリットの写真やそれへのコミカルな言及(猫にマグリット作品について訪ねてそれを録音するという作品。勿論、猫=私、解説者=森村氏、である。(そんなに意地悪じゃないかな?(笑)が続く。
 閉鎖的な印象のある最初のスペースを抜けてプラスティックな釜ヶ崎芸術大学の展示とフェリックス・ゴンザレス・トレス、ヴィヤ・セルミンス、ギムホンソックの風船作品のスペースに出るあたりでやっと一息つける。息を止めるように作品を見ていたことに気づいて、力を抜き、少し深呼吸。
 しかし、ここまで個々の作品については「ふむふむ」「これはなんだろう」「おぉ、ゴンザレス・トレス」等と思って見ていたが、全体の展示意図はさっぱりわからない。スタートから続くブランク、ミニマル・アートの連続は、俗塵を洗い流すシャワーのようなものか?とにかく筋肉をほぐして感覚を柔らかくしろというメッセージだけを受け取る。

 これが第3話以降の爆発的な展開につながる(ちなみに全11話構成で、普通に回るとそのうち7話までを横浜美術館で鑑賞できる。ライブイベントもある多角的な展開なので熱心なファンでないとコンプリートは無理。逆にいえば、見ることのできる範囲で見ればよいということ)。

 色彩的な釜ヶ崎芸術大学のスペースを抜けて第3話のスペースにつくとコンセプチュアルアートのスペースになっている。ここでは伝達、表現の不能、マイナーな事件の中心人物とその家族といったアクチュアルな展示がなされる。タイトルも「華氏451はいかに芸術に現れたか」。ここでスタートで通りすぎたホワイトやブランクの作品がドラマティックに存在しはじめる。ブランク、透明な言葉、ばかばかしいが確かに存在する境界線。トリビアルな存在こそがむしろ事件の中心であることが雄弁に(静かに、且つ、過激に)語られる。
 鮮やかである。第1話から第3話までのこの流れで展覧会の成功は決定づけられたといってよい。打ちのめされた。なんというパワーだろう。「私が船長だとしたら舵取りは危険である」というが、確かにこの切れ味は暴力的だ。権力の襞となる通俗的な論理性の暴力とこれに対抗する沈黙の力を強烈な形で示す。これは権力と芸術家の終わることのない対位法の劇なのだ。リベスキンドのベルリンのユダヤ人にはエクスプリシットに見せられるものはもはやなく、ヴォイドしかないという理論を思い出す。各セクションや作品の間に強烈なヴォイドやキアズマがエネルギーとなって現れるのだ。
 現代美術というのはこういうものなのだろうか?E=mc2とは質量とエネルギーの釣り合いを示した式だというが、ブランクやヴォイド、反復や不能化させられた機能等は相互に参照しあい、作品としての質量を破壊されること(あるいはネガ・ポジが反転すること(重要!))で爆発的なエネルギーを獲得する。入り口では途方に暮れていたが、むしろコンテクスト(文脈)がわからずに途方に暮れる経験が必要だった。「訳がわからなかった」からこそドラマティックに権力の暴力が現前する。

 個人的に展覧会全体の起爆装置となったのが文学報国会へ参加した著名作家たちの戦争翼賛詩と画家松本俊介の敗戦当日の日記と手紙である。特に前者は漠然と想像していたものよりもはるかに酷く、ショックを受ける。文学から「俗情との結託」を退けることは単なる必要なのだ。

 ここから先は森村氏の啓蒙によって見開かれた目で様々な作品を自由に鑑賞することになる。パワーファイター揃いでどれも一筋縄ではないので、感想は書かないが受け取ったパワーは尋常ではなかった(というか力尽きた)。

 展覧会は第6話を見てエスカレーターを降りると正面にアートを捨てるごみ箱があって、そこで終わる(7話はカフェテラスに展示)。うーん、完璧だ。強烈なテーマパークでだまされたような幻惑感がある。

 ひとしきり打ちのめされた後に、「忘れたいことと忘れたくないこと」を書くイベントに参加して美術館を後にする。

(※1 よく考えたら、透明アクリルに透明インクで書かれた署名とは我々帰国者のアイデンティティのことだ。私は他者の視点から見た自分自身の姿に困り果てていたことになる。これほどまでに分かりにくいのか?、と苦笑する。簡単な解決はないのだ。)
(※2 横浜トリエンナーレだけで終わるのは惜しいので、この展覧会、他所へ巡回できないだろうか?かなりのインパクトだ。)


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 いろいろと考えさせられたので知的好奇心冷めやらず、横浜の有隣堂で本を物色。『at』『インパクション』『天の血脈』を買う。テーマは天皇制批判。安彦良和氏はマンガ家、アニメーターであるため文尊漫卑の観点から批評的に評価されない向きがあるのかもしれないが、彼のマンガは大江健三郎の作品を除けば文芸誌に載る大方の作品よりも政治的に切り込んでいる。それは作品が左翼運動のオーソドックスな歴史と理論を踏まえているからだ。ポスト全共闘世代の作家たちの最大の弱点は天皇制=戦後資本主義を批判できない点だが、この点において安彦氏にためらいはない。柄谷−すがパラダイム文学史に意図せずに(?)現在最も忠実な作家のひとりなのではないか。巻末で松本健一氏と対談しているくらいだからすが氏や柄谷氏の議論は知らないと思うが、シンクロニシティは高い。文芸誌でなされる柄谷氏やすが氏の理論や対談の成果が反映されるのは純文学作家の作品ではなく、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザイナー、アニメーターである安彦良和氏のマンガである。大西巨人氏ともシンクロ率は高い。
 このオーソドキシーがデモのような市民運動と噛み合ったとき、不可能なる革命が目の前に現れるのだろうか?
 それともそれは多幸症的な夢想にすぎないのか?それにしては政治が露骨に悪い方向に進んでいる。現在の政府は老獪な保守政治ではなくパワープレイを信条とする右派政権なのだ。それは維新の党、みんなの党のような政府外の右派ともつながっている。

 小林節氏の議論はやはり自民党中心の保守政治の中で安保条約を切り盛りしていくための理論で、それほど射程が深いわけではない。彼は明治憲法日本国憲法明治天皇マッカーサーといったアニミズム的な崇拝対象となった人間が作ったことになっているので、「不磨の大典」=宗教的畏怖の対象となってしまい、それが市民革命の産物であることが理解されていないという。しかし、憲法が市民革命の産物だという歴史的経緯を強調するなら改正で最初に手をつけるべきは天皇制の廃止だろう。9条の相対化=なし崩し的な空文化を掲げるのは彼の本当の狙いが王党派的な元老政治の復活にあり、アニミズム批判は本質でないからだ。
 ここは『帝国の構造』の柄谷理論と重なるところだが、日本の王朝政治は天命や易姓革命のような哲学的な政治理論を持たなかった(単に隋・唐帝国成立のインパクトに対するリフレクションとして成立した)ため、生きた人間である天皇が物神崇拝=アニミズムの対象として最終的な政治的権威となった。そのため、本来ならば王朝交代や政治体制の転換となるべき政権交代が公には全く行われず、全ての政権交代が「物神」たる天皇の下での「実体権力者」の交代という形を少なくとも形式的にはとってきた。不幸なことにそれが19世紀以降、21世紀初頭である現在にまで続いており、半ば「土民」である日本人は「物神」である天皇のことばをシャーマンの「お告げ」のように絶対視しており、憲法もそうした天皇のお告げの一つだと思われている、というのだ。戯画化しすぎたかもしれないが、小林理論がそういうものであるならば、やはり改正の第一歩は天皇制の廃止と大統領制の導入により政治理念を正統的な民主政治にすること以外にないはずだ。それでヒンデンブルクのようなコチコチの保守派の元老が大統領に就けば彼にとっては願ったり叶ったりだろう。それをやらずにアニミズム天皇制を維持したまま9条だけを19世紀型国家主権に戻そうというのは、彼の改憲論の眼目が「近代化」ではなく「支配の強化」にあるからだ。
 大体、明治憲法日本国憲法を畏怖という点でパラレルに捉えているが、「世界戦争」の敗北の結果生まれた日本国憲法、特に9条にフロイト的な「超自我」の作用があるのはむしろ当然である。それを否認していることに気づかない小林氏の認識のほうが精神分析的に問題である。敗北によりもたらされた恐怖が憲法制定権力の根底にあるのは恥辱だというならば、9条は恐怖ではなくカント的な哲学的認識により生まれたものだといえばよい。そのような主張ができないのは、一つにカント哲学で政治体を作るようなリスキーなことはできないと嘲笑している(青臭いと思っている)ことがあるのと同時に、実際には敗北によって野心を断念させられ、戦勝国に従属しなければならないことが受け入れ難いということが理由である。要するに、未だに「戦争」という賭けに負けた現実を受け入れられないだけなのだ。「夢」の反対は「現実」だとフロイトはいったが、象徴天皇制下の保守派の「夢」は天皇制を維持したまま敗北などなかったかのように国際社会に政治的、軍事的に復活することだろう。それが不可能なことはいうまでもない(しかし、彼らは「できる」と信じて疑わない)。日本には学者から知識人まで、9条を拙速な手続きで削除、換骨奪胎しようとする論客が多いが、これらは敗戦トラウマ、戦争神経症以外の何者でもなく、刺激に対する反射以外ではない。このことをよくよく頭にたたき込んでおかなければならない。批評的創造性を持つ法理論は希有なのだ。つまりは、小林氏の法理論そのものが太平洋戦争が日本の官僚支配階級に反復強迫的な恐怖を与えたことの一つの証明だと考えられる。

(※付け加えるならば、アニミズム的な崇拝対象になっているのは天皇だけでない。法曹界も同じである。伊藤真から橋下徹まで、弁護士の肩書なしに彼らの主張を受け取れば滑稽以外の何者でもない。彼らは自分の肩書にアニミスティックな崇拝があることを知っており、そのことに酔っている。それはわざわざバッヂをつけて座談会に臨む小林節氏も同断である。世俗的な民主化を求めるならば、まずは足元の法律家業界の脱構築から始めるべきだろう。日本で法律家業界ほど神話的な麻酔作用が強く世俗化を拒んでいる業界はないのだから。法律家は神でも英雄でもなく単なる人間にすぎない。セックスによって生まれ、必ず死ぬ。無意味な司法試験による法律家の神格化の偶像破壊を行い、それを支える普遍性を拒む法体系の改正をこそ目指すべきである。無意味な裸の王様たる法曹を単なる近代的な法律家にする必要がある。)

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 そういえば、浅田氏とすが氏の評論を本格的に読んだのは筒井康隆の断筆宣言批判が最初だった(『文学部只野教授』)。批評の始まりが強者による弱者の自由への威嚇への批判だったことを思い出してダイアリーの〆とする。

※ 浅田氏のトリエンナーレ評
http://realkyoto.jp/blog/yokohamatriennale2014/


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 事態の進行は思ったよりもずっと早いようだ。以前下記のようなことを日記に書いたが、上坂すみれさんのアルバムでは既にゲームミュージックの作曲家をコンポーザーとして起用している。
http://d.hatena.ne.jp/nomad68k/20130621/1371813655
http://www.youtube.com/watch?v=Qql3c6OgGrM

 ゲームミュージックは音楽でないといわれる時期はさすがに過ぎ去ったのか?ちょっとした祝祭感があると同時に我が目を疑う。佐野さんが畑亜紀さんと組み、岡部さんが森雪之丞氏と組んでいる。コンシューマーからも伊藤賢治氏に光田康典氏。しかもオープニングは作詞作曲で遠山明孝氏(殆ど鉄拳そのまま)。これは殆どオタクの妄想だ。特に岡部さんが作曲で森雪之丞氏が作詩...。坂本龍一ではないのだ。
 案の定、大槻ケンヂ氏とNARASAKI氏もプロジェクトに参加している。この流れならば並木学氏に上坂さんからコンポーザーの依頼が来るのもそう遠い日ではないのではないか(※1)。まさかゲームミュージックがメジャーに浮き出てくるとは。しかも、遠山氏のトラックは大槻・NARASAKIの大御所コンビに全く負けていない。
http://www.youtube.com/watch?v=E8DkIwMYzt4

 繰り返しになるが、事態の進行の早さに驚く。きゃりーぱみゅぱみゅにもこれでもか、というほどにコンピューター・エンタテインメントの影響が見えたが、上坂すみれはさらに過激である。...と思ったらどうやら声優のようだ。テレビメディアは両者を同じものとは見ないだろう(彼らに批評性など最初から期待してないが)が、彼女たちは完全にパラレルな存在である。

※1 と思ったが、「革命的ブロードウェイ主義者同盟」の音色とメロディラインが並木氏の近作、怒首領蜂「大復活BLACK LABEL」「最大往生」と似てるので得意の路線で攻めると芸風がかぶりそうだ。難しいなぁ〜。

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 最後のセクション。東浩紀氏のツイッターから飛べる野間易通氏の刺激的なアジテーション。ジャーナリズムにおいてクリティカルなものを察知する嗅覚は健在のようだ。ツイッターは読みにくいのが難点だが、野間氏の発言は快活で小気味がいい。リアルタイムで映画評論家の町山智浩氏と論争になっていて面白い。野間氏も町山氏も相手の理論の消失点をわかった上で議論してるように見える。
 奇しくも野間氏、金城武氏、上坂すみれさん(の歌詞を書いている遠山氏)、安彦氏のマンガ中の登場人物、森村泰昌氏は同じことをいっている。野間氏の運動はクリエイターのパッションと通底している。「敗北を恐れるな。恐れるべきは不正と戦う勇気を失うことだ。法が不正であるときは正義が法に勝る。」不可能なる革命はもう目の前に現れているのか?あるいはそれは常に既に目の前にある...。

https://twitter.com/kdxn