無用な選挙...

2カ月に一度の日記。
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https://www.youtube.com/watch?v=OmjJWUM8VcA
http://d.hatena.ne.jp/nomad68k/20121201/1354354322

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よしひろまさみちさんのコラムが終了していた。もともとよしひろさんのコラムが無償で読めることが幸運だったのだからやむをえない。しかし、それをいったらにちょぽのコラムは全員いつ終了しても仕方がない。現在のクオリティは「誕生期の楽天性」であって、祝祭なのだ。
 マーガレットさんはLGBTアメリカ型ソフィスティケーションに抗うように常にえげつない題材を選ぶ。圧倒的な文芸的教養をもっているのだが、それをプレインな状態で出すことはない。かつて福田和也氏が文壇で文士の居心地を悪くさせることをアイデンティティとしていたが、同じメンタリティを感じる。
 それにしても、ゲイのAVもえげつなさはヘテロのそれとかわらないので苦笑する。おまえらにいわれたくないって?そりゃそうだ。
http://www.2chopo.com/article/975/

 LGBT映画祭の座談会のyoutubeを久しぶりに見てみたら愕然とするほど再生数が少ない。登壇者の知性においても、内容においてもこれほどハイクオリティな座談会は希有なのに、なぜだ?日本人よ、そんなに同性愛に関心がないのか?それほど同性愛を「存在は認めるけど自分には関係のないこと」と思っているのか?あるいは「お互いが傷つけ合わない距離を保って無関心を貫けばそれでいい」と考えているのか?居場所は侵害しないが、アイデンティティを認めるつもりはない、というのは、他者=同性愛者の自由の否認、即ち、パッシブな(不作為による)攻撃である。マジョリティのマイノリティに対する暴力は、常に、虚栄と悦楽の追求を少数派のために邪魔されたくない、という形をとる。10の利益が9.9になること、たったそれだけの犠牲に彼らは耐えられない。
 これとは別に日本人のマイノリティやハンディキャップに対する関心の低さは政治制度に原因があると思える。

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「あのねぇ、いいたいことを言えない苦しみっていうのを味わったほうがいい。」
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20051217

「選挙なんていったって何も変わらないってことがわかってない。
そういうことだと思うんだよね。
そんなことより、自分でなんか始めたほうがいい、というか、それしかないということがわからないうちは、それはもう希望はない。
で、それがわかるまでにはねぇ、まだまだ裏切られなければならない。そういうことでしょう。
だからねぇ、一番暗いときに希望がまだ微かにあるみたいな。そういう体験をした時代とか場所というのがあるわけですよね。
https://www.youtube.com/watch?v=vLDMc6DFf5Q

Sakurai・Hashimotoといっても行政法の教科書ではない。
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524577760044277760
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524583435453485056
https://twitter.com/toyamakoichi/status/525107266194657280
https://twitter.com/NakagawaFumito/status/524475114650230784
https://twitter.com/NakagawaFumito/status/525120620757909505
https://twitter.com/NakagawaFumito/status/525121290839945218

外山恒一氏のイデオロギーは(イタリアン)ファシズムで、私とは相いれないが、射程の深い知性からなされる判断には聞くべきところが多い。例えば、チャーチル的な意味(民主主義は最悪の政治体制だが、残念ながら、他に代替的な政体はないからこれに従う他ない)のシニシズムに基づく選択はダメで、アナーキストはニヒリストでなければならないという主張には芯の強さを感じる。
http://www.youtube.com/watch?v=qEUgOX5kWf8
外山氏に一番近い言説を展開しているのは中田考氏か。
http://www.youtube.com/watch?v=iRCRqMclXq8


庭にくるメジロのさえずりは可愛らしいのに、なぜ政治家の「さえずり」は醜いのか?
端的に人間が醜い動物だから?

選挙というが、与党にはそもそも政策がなく、野党にもレイムダック化した政権を引きずり降ろす戦略がない。あまつさえ、近代右翼が野合をして既存の保守勢力(といっても極右にハッキング(クラッキング?)されているが)に対抗しようというのだから、政治状況は全体主義そのものだ。

振り返ってみて、この2年間で安倍政権は政治活動を何もやっていない。すが秀実氏が第二次安倍内閣成立時に政権がもつか否かは「株価次第だ」という渡辺喜美氏の言葉を引用して絶賛していたが、本当に株価とそれを支える円安政策以外何もやってない(実際にその通りだとしても、政権の命綱が「株価」であり、それを見抜いたと喜ぶのは一種の左翼小児病ではないか?)。政権の主役は安倍首相ではなく日銀総裁の黒田氏と「アベノミクス」オーガナイザーの浜田宏一氏である。政治的判断があるかのようにふるまいつつ、現実には断固としてそれを沈黙させることで古い判断を前に送ることが目的だったのだろう。この状況をボードリヤールを使って語る批評家がいないのは奇妙なことだ。これこそシミュラクル=政治の不在としての政治である。
 https://twitter.com/Oni_Curry/status/532487714935808001

 久しぶりに宮崎哲弥をテレビで見たが、単なる金融資本主義のイデオローグになっていて呆れた。
 最初からこういう人物だったか?言語に批評性がまったくない。大衆、国家、資本に飲み込まれた言葉は批評ではなく単なる生理的快楽である。大衆文化(テレビドラマ、ポップミュージック、芸能史)と国家=共同体主義だけを語っていた頃は多少は抑制があった。資本が入ったからか恐ろしく幼稚になっている。彼は第一次政権の頃からのプロ安倍政権だが、大衆−国家−金融=極右ということで政権と意気投合するのだろうか。だとしたら惨めというほかない。資本は人間を幼稚にする。これは常に自分のこととして考えなければならない。

 もうジャーナリズムを追うことはできなくなった。
 たくさんのことが一度に起こっている。「一番後ろにいる奴がトップに立つ」時代になったのか?
 いま自分の選んだ世界は牽引力をもった機関車ではなく、それに連結される客車である。
 私は乗客らしく列車の走行に身を委ねよう。
https://www.youtube.com/watch?v=ikD2APRw9YY
https://www.youtube.com/watch?v=AduVwOPhW50


(※ 立ち読みした『エンタクシー』のすが秀実氏の時評によると、在特会ヘイトスピーチはオーソドックスな反ユダヤ主義と同形のものらしい。だとしたら、彼ら自身と彼らをあなどっているメディアの評価に反して、在特会の極右活動ははるかに深刻なものである。すがは在特会はオリンピックまでの時限つきのものだと紹介しているが、日本で全体主義が成立する場合、ナチスのようなカルト政党が国家を覆い尽くすものよりも、群小右翼が大同団結して「大政翼賛会」を形成するほうが抵抗が小さい。在特会がその露払いになる可能性がある。90年代以降、政治情況が過去のどの時期に似ているのかということは常に議論されるが、欧米型排外主義が日本的ファシズムと結合して災厄をもたらす可能性が現実味を帯びているのではないか。
 日本においては、強烈な(同時にインチキな)カリスマ性をもったナチス型ではなく、西田幾多郎の唱えた無の場所のような主体性を喪失させる哲学のほうがファシズムイデオローグになる。丸山真男東京裁判ニュルンベルグ裁判を比較し、天皇制右翼はナチ幹部に較べて悪党として肝が小さく、惨めだと書いているがこれは現在でも変わらない。日本のファシズムは矮小な小悪党が大同団結して、彼らが無責任に無軌道な活動を行うことのできるプレイグラウンドを作ることで成立する。繰り返すが、日本のファシズムは西洋型のように強力な主体性によるのではなく、「リフレクションの要請」によって生まれる「エンプティ・スペースの絶対化」に基づく。従って、強力な指導者も、明確な綱領も、決定的な事件も必要ない。国家にかかる圧力が一定の閾値に達すると自然に形成される。日本型ファシズムの蛮行は明確な差別意識や一枚岩の組織の指令によるのではなく、「エンプティ・スペース」を守るための斥力や浸透圧の論理によってなされるのだ。同時にこれが哲学であることも強調しておく必要がある。シングルな指導者、明確な綱領と目的、モニュメンタルな事件が「ない」ということだけは徹底的に意志されるのだ。「無の場所」を最高価値とすることは明確な原理であり、その原理そのものへの言及がサイレンスされることまで含めて、日本型ファシズムも哲学に基づいた政治運動なのだ。
 つまり、どういことかというと、ドイツ型ナチズムだけをフレームアップし、これに抵抗するために無気力や主体性の相対化だけを掲げるとまさに日本の「無主体性ファシズム」にとりこまれるのだ。なによりも、「無」の強制という形で個人の主体性を否定し、国家権力への服従をゴリ押しする政治圧力は、現在でも警察の捜査、取り調べという形で残っている。ジャパニーズファシズムは現役の政治思想である。
 何度も言及されてきたとおり、市民の主体性を強制的に奪う「無責任の体系」は「なし崩し」で形成され、且つ動く。かかるリフレクション・ファシズムに対抗する方法が明確な主体性を持つことであることはいうまでもない。
 形成されつつあるかもしれないリフレクション・ファシズムに対して外山氏のパルチザンはどう対抗するのだろうか?)

(※2 選挙のためか憂国ほう談が早めに更新。速報性あるなぁ。健全な欧米型の国家と違って日本は政権交代の可能性が極端に低い「事実上の」一党独裁国家なので、選挙向けの特別キャンペーンをやっても効果があるか疑問だが、やらないよりはましだ。昔からしつこいほど、日本は個人のない集団主義だとか、若年世代はシニシズムだとかいわれていて、「オーソドックスな民主主義」がまったく根付かないが、とにかく石を積まなければ石垣はできないのだから、できることはやったほうがいい。
 話題は横須賀美術館から防衛大の学園祭へ続き、スタンダードな軍人の知性がないから、安倍首相のような安全保障の幼稚な暴走を許すという話から始まる。スタンダードがない、ないし弱いから幼稚なポスト・モダン・シニシズムの暴走を許すというのは何度もいわれていることで、またこの話かと思うが、実際にその通りの情況なのだから何度でも同じ話を繰り返すほかない。
 安倍首相から橋下市長まで、シニカルな子供が「財政再建」の建前の下に専横を極めてうんざりする。債務増大を解決するために政府はこれまでと違うことをやらなければならないし、そのためには官僚主導ではないオピニオンリーダーが必要である。しかし、それがことごとく歪なデマゴーグの支配に転化するのは、要は選挙民に選択能力がないからだ。実際には国も自治体も債務が増えているのだから、政治へのシニシズムはそのまま我々に跳ね返っている。日本の国力は国際的評価よりもはるかに低いと思ったほうがいい。政治が混乱するのはパワーのないエンジンに重い車体がのっているからだ。その意味では「自虐的」な円安誘導は正しいのかもしれない。
 あるいは、日中首脳会談での国力の弱さへの言及があるが、実際に三等国への転落の途上にあるのだからこれでいいのかもしれない。
 二番目の問題は大学を下層向けと上流向けの二つに分ける政府案への批判。すが秀実氏が賛同的に言及していたのに対して、こちらは批判的な言及。
 最後は田中氏の新刊の宣伝。33年前はITがなかったのでちょっとしたテクノロジーがまだまだ特権的だったと話している。完全におじいちゃんの昔話。しかし、正しい年のとりかたなのかもしれない。
 読み終わってみると政府に対しては現状においても将来の展望においても何一つ明るいものがない。昔からそうだったのだろう。ブラック・ユーモアを忘れないことが憂国ほう談の役目なのかもしれない。)