歴史の復習

 70年前後に大きな変化があった。60年代までは資本主義も社会主義の政策を部分的に取り入れて、ケインズ主義的な福祉国家というかたちで一国単位で所得格差の調整を図っていたが、70年代になってこれが破産状態になり、また、同時に資本が国境を越えてグローバルに動き出すようになる。そこで80年頃からサッチャーレーガン新自由主義が支配的になる。新自由主義はグローバルな競争に勝つために弱肉強食の経済競争によって、強者が弱者を併呑することを肯定していく。その後、90年代にクリントン、ブレアが市場万能主義の過剰を是正することを旗印に登場するが、経済政策に関する限りは、市場万能主義の継続であり、公共資本(全体のパイ)からマイノリティへの分配はなかった。
 こうした状況に対して「批判」ではなく「反動」が出てくる。左派ではなく右派の側からグローバル・スタンダードアメリカン・スタンダードの押しつけにすぎず、普遍性がないという主張がなされるのだ。この主張はある意味では当たっているが、その結果として提出されるイデオロギー民族主義ポピュリズム以外のものにはならない。
一般に、一方で「グローバル・スタンダード」と称してアメリカ基準が押しつけられるとき、他方でそれへのリアクションとして閉じたナショナルないしエスニックな「伝統」を捏造して居丈高に振りかざすという動きが出てくる。昔のルーツに帰るというけれど、実はそれは現時点での世界資本主義に対するリアクションに過ぎないんで、その意味では二重にリアクショナリー(世界資本主義への反発と、現時点での圧力に反発するために過去を理想化されたものとして捏造する)なものだというべきである。
 繰り返しになるが、70年代にケインズ主義的な福祉国家が破産し、オイル・ショック後の不況で失業率が上がって、とくに大量の若年失業者が発生すると、その原因を移民に帰して、若年失業者の移民へのルサンチマン(怨恨)を煽ることで、ル・ペンの国民戦線のような極右が勢力を伸ばしてきた。それがすぐにファシズムにつながるとは思わないが、経済状況によっては予断を許さない。これは日本についても同じことである。
 従って、世界資本主義の「新世界秩序」を批判すると同時に、それへの単純なリアクションとして生じるナショナリズム民族主義をも批判しなければならない。特に、日本の現状で批判しなければらないのは後者である。


 それにしても、大晦日の紅白はつまらなかった。日本人歌手しか出ない歌番組がこれほどマンネリに見えるとは...韓流の歌手がいるだけでいかにステージが国際色豊かで新鮮になるかがわかる。というよりも、既に彼らが存在しないと不自然に感じるくらい、韓流は私の認識にインプリントされている。