宗教としての知と技術としての知

 一方でピースミール・ソーシャル・エンジニアリングとして技術知が断片化、無意味化した上で肥大化し、他方で、全体性を指向する哲学は、全体たりえぬビジョンを全体と信じて、それをマンダラの如く崇拝する近代社会の宗教と化する。
 我々はこのどちらも拒絶しなければならない。我々にできることは、近代の勝利を受け入れた上で、その内部で局所的な批判の運動を続けるという困難な戦略だけである。
 圧倒的な柔軟性を誇る近代のドミニオンに対してパラドクサをつきつけ続けること。それによって膨大な質量を誇る近代の前進運動に微妙な偏曲を生じさせること。それだけが我々にできることである。

 我々は整然たる世界観を攪乱する必要がある。しかし、目的を削除すると人は人格分裂に陥ってしまう。人が理性を保つためには目的=エンドが必要である。が、前述のとおり、マイノリティたる我々の目的は「生の目的」を攪乱することである。人生の目的を相対化し、脱臼させ、その軋みから偏異を作り出さなければならない。目的は単一のものではなく、諸要素から形成されるスナップショットにすぎない。そこで、生の目的性のヒエラルキーはヴァーチャルに組み立てられ、組み換えられることになる。整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出せ。リゾーム的な知(理論)と情報(現状分析)の相互参照体を作り出すこと。

 英知においては悲観主義者、意思においては楽観主義者たれ


 均衡理論は現実の不均衡に対する動揺を静めるために、資本主義の交換過程を究極的に意味づける「聖なる天蓋」として機能するものであり、理論として独禁法自由貿易に根拠を与えもするが、前者の役割のほうが重要である。