ボードリヤールのシミュラクル(歴史の模造品)論とアニメ

 ボードリヤールを読む。うさん臭いと思っていたし、その判断は当たっていたと思うが、振り返ってみて、その情報社会論の的確さにうならされる。確かに、ひたすら非−出来事だけが消費されている。この30年近く...バラードと並べて読むと面白い。電子的なシミュラクルを突き破る現実は何時でも起こりうるがゆえに、未だにどこでも起こっていない。あるいはそれは常に既に起こっている。

 自由と反動のダイナミズムによるヘーゲル的葛藤のなくなった世界では個人の自由を実現する可能性が霧消ないし一時停止し、その結果=代替物としてシミュラクル=資本主義商品が世界を覆い尽くす。シミュラクル=商品世界では歴史的事件(自由に関わる)が起こらない(○○は起こらなかった!)ので、歴史を語るはずの物語は語るべき具体的な対象を失った(雄弁な語りを挫折させられた)結果、数学的な最大公約数としての抽象化された対象を描くか、矮小化された小さな物語を描く。この二つは共に創造性を持たない。単なる挫折のもたらす内向は復活を欲望しており、その限りでクリエイションたりえないからだ。両者は挫折を内面化できていないがゆえに創造性を持たない。だから何をやっても歴史的な達成に到達しない。これがオリジナルを持たないコピー=線分として消費されるだけで消えていく商品=シミュラクル=概念(物語もなければ批評性もない、非−出来事のジオラマ(知性の働きがない))である。
 
 現代社会において、商業的映画作品に何ら興味を持てないことは収穫である。なぜなら、シミュラクル=世界資本主義市場に共感できないマイノリティこそが挫折を内面化している点で新たな歴史の創造者となれるからだ。

 現在公開されている『Q』で唯一のマイノリティは、作品のヒロインの一人、惣流アスカである。『Q』は家族からの脱出の物語になっているが、アスカを中心にできず、共同体主義的なレイを主筋にしているために古い型に嵌まっている。そもそもハーフ、女、帰国子女という記号でしかマイナー性を表せないことが問題だが、これに加えて崩壊するファミリー・ロマンスからの解放者が一人の英雄的な少女(ジャンヌ・ダルク?)に象徴化されていては多様性は望むべくもない。

 他者を欠いた単独性は強烈な排外主義となる。必要なのは、唯一の他者ではなく、多様な他者である。

 話は変わるが、ジャンルとしての殆どのオタク商品には他者が欠けている。オタク文化は単独性(かけがえのなさ)にはこだわるが、他者(異質な存在)を嫌悪する。それがこのジャンルの狭さを作り、危うさとなっている(閉鎖的な共同体主義と親和性が高い。また、他者を欠いた単独性は内省を欠いた行動に流れやすい。(「かけがえのなさ」が自己愛へ向かう。))。


 しかし、jgバラードのいうように、これはいいことなのかもしれない。メディア・イベントに何の出来事性もないことが明らかならば、我々は安心して自らの内へと撤退できる。メディア・ランドスケープしかないことを示す「最後の商品」がオタク文化ならば、非オタクがそこから受け取るべきメッセージはただ一つ。資本主義の商品をやり過ごし、脱臼せよ、である。メディアはもはや歴史のメッセンジャーではなく、情報のゴミ集積所にすぎない。現在の出来事は内宇宙と偶然にのみある。

 東浩紀氏は結局作家なのだろう。だから間接的コミュニケーションを掲げる浅田氏に執拗に反発する。