司法試験

 日本で弁護士になろうとする場合、民主的な社会のエリートになろうとするのではなく、専制社会の支配階級に参加する意識を持たなければならない。そのためには社会制度と歴史の歪みと屈折に耐える粘り、封建制度への妥協とそこからの抑圧に耐える柔軟性と体力が必要である。この世界は芸術の世界のように素直にはいかないのだ。理論のポテンシャルなど低くていいし、創造性がなくなるのは仕方がない。素直さや芸術的達成は諦める。この国の歴史的な遅れや歪みに付き合って、たまねぎの皮をはがすようにそれを除去しなければならない。

 ここはアメリカではないのだ。

 司法試験も司法試験予備校も法科大学院も法曹も制度やスタッフそのものが歪んでいて、また、知識人や文芸批評家もジャーナリズムもこれをまともに批判する言説をものすることなど考えておらず、できもせず、とんちんかんなことしか言わないのだから、これらの言説体系全体を解剖して批判するところから始めなければならない。法曹界は民主制ではなく、また、自己批判の能力がないし、その展望もないのだから、外部からやってきた学生は世界の全てを変革する英雄になることを求められる。民主的なシステムを信頼してはならない。この国の法曹の民主的システムは形骸だけで、それが形骸だけだという意識すらない。民主主義なんてないのだから、民主的であろうとするならば専制を打倒する市民革命家でなければならない。革命的であることを恐れるな。自分が世界に出るためには革命的であるほかないのだから。

 そして、素直な社会があると思うな。屈折に迎合することからしか何も始まらない。ここで生きるならば芸術的であることはできない。
 世の中に出ることは、端的にスマートなシステムを考案することではなく、とにかく現実の政治経済体制に同化することである。

 つまり、理想を追うのではなく、眼前の選択肢の中で最高のものをその都度選び、消費するサイクルに拘束されること。

 必要なのは物語的感情移入である。上品で批評能力の高い教養人ではなく、土着的で紋切り型だが物語的感情移入をしている学生だけが合格する。とにかく物語的感情移入。それでマイノリティが差別されても無視する。