グローバルスタンダード

http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/002798.php

 従軍慰安婦問題についてきちんとした議論をしている。そう。誰も味方はいないし、発言したいのならば、そのことを踏まえた上で発言しなければ全く意味がない。

 外交が建前であることなど常識ではないのか?直前に猪瀬発言があったが、本当に日本の政治家には国際常識がない。要するに田舎者なのだ。

 橋下市長の主張には論理のすり替えがある。議論をよくフォローしないで書くが、問題の発端は沖縄での米軍司令官との会談である。一般的に軍隊には強姦や虐殺があると主張するのは結構だが、話が抽象的であり、又、彼は政治家なのだから、発言内容については文脈の中で意味するところを判断することになる。本気で世界中の軍人の犯罪を根絶したいのならば、そのような組織を国連内部に創設するという話になるし、そのために日本が出資し、スタッフも提供するし、ロードマップを作成することになる。そういう話では全くない。大体、二人の会話は国連総会や安保理でのものではなくプライベイトな場所で行われたものであり、また、彼は地方自治体たる大阪市の市長であって、そのような理論的な問題に関わる政治的立場になく、なぜ沖縄に現れたのかそもそも不明だ。普通に考えれば自己がセクシストではないと弁明したいだけだろう。政治家とは大義=タテマエをいうものであり、それができない人間はそもそも政治家とはいわない。彼の言説は債権回収ばかりでそのような賭け=理念がない。
 東浩紀氏は彼を隠れ左翼でイデオロギーを隠してリバタリアン的な帰結主義に基づいて政策実行をしているポスト・マルクス主義的革命家だと擁護しているが、愚劣である。帰結主義とは弱者の強権政治にすぎない。理論を欠いた政治は専制支配=暴力と恐怖による支配(シュトラウスホッブズ、シュミット)以外ではない。理論を欠くことを理論的に基礎づけたとしても同じである。帰結主義に基づいて、専制がレジティマシーを持つと考えるのは無知且つ野蛮である。彼らに対してはヴィトゲンシュタインに倣って何度でも「犯罪者が政権をとった」と指摘するべきだ。また、マグリットに倣って大阪市の市政の下に「これは政治ではない」(事実行為?)と書くべきである。安倍、石破、と小泉、橋下を区別する言説も愚かである。彼らは帰結主義決断主義に基づいて専制を行う点で完全にパラレルである。しかも、彼らのみならず新自由主義には俗情と結託した差別的表象が広範に見られる。彼らを批判できないのは、結局批評家が資本主義批判を回避しているからだが、これはポスト・モダン知識人の根本的な弱点というべきだろう。
 いうまでもなく、彼らを端的に批判できるのは新旧のふつうの左翼である。
 今目の前にあるのは、磯崎新氏がワールド・トレード・センター・ビルディングを評して述べた「リダンダンシィ(冗長さ)」の支配である。理想に近似しつつ根本的に非なるもの=顔のない者のもつ醜さ。現実はリダンダンシィが暴力であることを現在進行形で雄弁に立証している。これがリダンダンシィだということは、日本の政治決定が既にグローバリゼーションに飲み込まれたことを意味する。リダンダンシィの暴力を脱構築すること。戦争機械(アキレス)となって世界資本主義の条理に地割れを作ること。襞に襞を重ねること。概念を作ること。
 繰り返しになるが、東氏のかつての哲学論文を過剰に評価し、政治的判断まで優れているかのように考えないことだ。論文の価値は変わらないが、哲学研究者が大衆的な政治に関わる場合に明白で危険な先例があることを思い出してよい。様々な要素の違いに関わらず、我々は歴史の反復の前にいる。柄谷氏は60年か120年かということを述べているが、こうした明確な指摘は一旦避けて、様々な歴史の亡霊が興亡するコンテクストを注意深く見る必要がある。我々は神々の戦いというウェーバー的状況に生きている。

 それと、軍の関与は国家の関与ではないというが、シビリアン・コントロールの下では軍は行政であり、行政の行為=処分は国家の行為である。大日本帝国軍についても同じである。

 これが弁護士なのだろう。たとえ敗訴になっても自説を最後まで貫き通す。弁護士としてはそれでメンツが立つのだろうが、政治生命は失われる。

 双子の赤字が深刻にならない限り、この種の妄言はなくならないのだろうか?

http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2013052800019.html?iref=webronza
小林正弥氏の分析。小林氏はマイケル・サンデルの翻訳紹介者で、アメリカ系の分析哲学の粘り強い分析を行う。反面、論文は橋下氏の訴状を受理しており、緊張感が足りない。この論文は良くいえばまじめだが、悪くいえば愚鈍だ。小林氏の主張は却下ではなく棄却でいこう、その理由はアメリカ的自由主義のアリーナで政治フレームを作るならばリバタリアニズムは無視できないからだ、というもの以上ではない。○×でいえば×だけど中身は検討する、と。法律家、あるいは法哲学者らしい対応というべきか。文学的知が優位にある日本ではこういう対応はポピュラーではない。そのため冗長に見える。実際、彼は最大限に橋下氏の側に寄っている。小林氏の意図がどうあれ、これでは早晩詭弁と煽動政治に取り込まれるだろう。小林氏は彼が譲歩している相手が学者を侮蔑し、暴言の対象としてしか見ていないことを知ったほうがいい。彼にリバタリアニズムなどという原理はない。そもそも哲学理論を練り上げるのに必要な内省がないのだ。あるのは二項対立を粗製濫造した上で常に勝ち側にいたいという単純な欲望だけである。それは単純且つ暴力的だからこそプーチンのように支配を確立する。彼をリバタリアニズムで見るのは間違いである。アメリカ的なリベラリズムを形式的に適用すれば、その瞬間にリダンダンシィの支配に取り込まれるだろう。