法科大学院には、

 サービスの中核であるはずの講義が存在しない。教員は科目の要点となる原理を示すことができないし、鳥瞰図も示さない。講義は概念や条文をポンと出してその内容説明を学生に求めるだけのもので、学生にものを教える意思は感じられない。早い話が、講義ではなく口頭試問がなされるだけなのだ。教員は教科書を指定するだけで、その内容を理解できるかどうかは学生に丸投げされることになる。要するに、法科大学院で行われるのは「情報の給付」であって「知識の伝達」ではない。従って、学生は手ぶらの状態で自力で教科書を理解できないと脱落することになる。
 では、教科書を読めばいいではないか。読めばわかるのだろう、と思うだろう。そうではない。「実務法律学」の教科書=基本書は一般市民=サラリーマン、他学部生が手ぶらの状態でどれほど誠実に読んでも理解できないのだ。なぜなら、基本書は暴力を独占的に行使する戦士階級のためのノウハウ本として書かれているが、市民生活は暴力行使を最大の悪とすることで成り立ち、市民は暴力忌避を内面化しているからである。いうまでもなく、法科大学院適正試験は一般教養試験であり、暴力から遠ざかり、これをコントロールする能力を求められているが、実際の法律学の修得のためには真逆の「暴力を喜ぶ気質」が求められる。かかる、戦士階級の倫理観をもって読まなければ法律知識は身につかないのだ。そして、この点に関して法科大学院の教員はなんの説明もしないため、真面目で優秀な学生の多くが自信を失い脱落していく。
 そうすると、法科大学院のカリキュラムについてこれて新司法試験にパスする可能性があるのは以下のような学生になる。即ち、日本の法律学が市民の法ではなく封建的な戦士の法であることを知っていて、そのエートスを体得していることと、法科大学院は対価を支払えばサービスを提供するであろうという市場経済の前提の通用する相手ではなく、サービス内容は自ら作り出さなければならないこと、さらに、この二つのハンディ・キャップについて自力で挽回できる力があること、この三つが司法試験にパスする学生の要件である。