雑記

 日本はアメリカから概念が入ってくるとなんでもかんでも受け入れてあたかもそれが昔から当然であるかのように振る舞う現金な国である。ストーカーという概念が輸入されたのは2000年代以降だろうか?扱いの難しい問題なので、世界が変わったかのように否定的な扱いをすることについては苦笑したくなるが、概念が輸入されたことである種の問題の風通しがよくなったことは事実だろう。勿論私はこの現象を肯定するつもりはない。ストーカーは分析治療の対象として研究されるべきだ。しかし、概念が輸入されるや一義的に否定的な扱いをするようになり、現象のもっている多義性が忘却されてしまうことには注意が必要である。それはテロリズムについても同様である。男はストーカー的な女性に強い性的魅力を感じるものであるし、大衆はテロリズム喝采するものである。そのことをそれぞれ文学作品を挙げて例証してみよう。
 ストーカーというと雛形あき子の当たり役『ストーカー誘う女』をイメージするがあれは分かりやすくカリカチュアライズされた姿である。一般男性から見た自然なストーカーの姿は『東京ラヴストーリー』の赤名リカに他ならない。要するにほんの数年前まではストーカー的な美女に多くの日本男性が強烈な性的刺激を受けていた。
 テロリズムについてはどうか?日本には大衆が現在に至るまで歓呼と喝采をもって迎えるテロリズムがある。そう、『忠臣蔵』である。
 我々は政治的レベルで否定的に扱っている現象を文学的、プライベートなレベルではしばしば好意的に扱う。