雑記

 安倍首相が新規採用する国家公務員の3割を女性にするといっているようだ。理念を語ることなく自己の政治的立場とは異なる政策をとるのは奇妙なことだ。冷戦崩壊以降、リベラル側が保守的な政策をとらざるをえない反面、保守側も再分配的な政策をとらないと政権維持できなくなったため、左右どちらが政権をとっても殆ど政策に違いがなくなったというが、これはそうした政治状況とは異なるように思う。なぜなら安倍政権は保守政権ではなく極右政権だからだ。右派の政治的方針に基づきながら、不定期に極端に方針の異なる政策をアナウンスするのは、彼らが単なる右派ではなくボナパルティズム=全方位的支持を求めているからである。これは大阪の橋下市長も同じである。強権政治を基礎としながら、その時々で人気の取れそうな政策をゲリラ的に挟むことによってイデオロギーによる政治ではなく、「不偏不党のピュアな政治」を全国民にアピールする。勿論これほどバカげたものはない。政治はイデオロギーの闘争以外ではない。イデオロギーなき政治は最悪のポピュリズムであり、現に今目の前にそれがあるのだ。例えば、分裂した維新の会について、あからさまな極右発言をする石原氏に対して橋下氏は「柔軟」であり、より望ましい政治家であるかのような言説をたまに見るが、悪質なプロパガンダである。前者が端的な極右だとすれば、後者はボナパルティズムを指向しているにすぎない。
 話を元に戻すと、利益・損失の当事者にしてみれば右か左かに関係なく作られた橋は使えばいいと思うかもしれないが、政治思想の裏打ちのない政策は基礎が脆弱なために破綻しやすく、また、権利は割り引かれたものとしてしか実現されない。要するにこれは悪い政策なのだ。
 ボナパルティズムの分析としてはマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』がある。第二帝政は失業の解消と経済発展を両立させるという歪な政策によって圧倒的な大衆の支持を得たが、普仏戦争によってあっけなく消えた。ポナパルトにせよヒトラーにせよ、実務家政権はある日突然消滅する。21世紀初頭のポピュリズムも同じように唐突な終焉を迎えるのだろうか?

 ポピュリズムを生み出すのは経済政策の行き詰まりだと説明されるが、現今のポピュリズムを主導をしている政治思想の拒絶。実利的な結果さえ出せば思想による自己規律は必要ないというミクロな消極的自由主義であろう。反知性主義的実利主義こそが「経済政策の行き詰まり」の反哲学的反映といえるかもしれない。彼らは自らを政治イデオロギーを打破する自由の使者だと考えているように見える。ポピュリストは「右でも左でもない」という言い方をするが、自己の限界づけを拒み全能感を享受し続けようとする幼児的ヒステリーこそがポピュリズムの精神的基礎ではないか。そして、それは意図的に劣化させられたアメリカン・デモクラシーのように思える。