レズビアン&ゲイ映画祭後半

 先週見た『HAWAII』が良かったので19日(土)に『アゲインスト8』と『アニーと秘密の部屋』を見る。

 映画祭に絡んでLGBT文化人の公開座談会がYoutubeにアップロードされているが、これが面白い。特に田亀氏が3本のゲイ映画を明確なパースペクティブの下にまとめてくれるので、それぞれの映画がどういう位置づけの中にあるかがわかって作品への理解が深まる。さらに、動画の中では三島由紀夫への言及があるが、彼/女らの動画を見ているうちに過去に読んだ三島の対談、エッセイがドラァグ・クイーンの放談にしか見えなくなってきた(笑。『仮面の告白』と『禁色』の作家でおばあちゃん子だったというのだから、そりゃあゲイだろうと思う。小説がいま一つ爆発力に欠ける(といってもあの見事なクオリティだが)とされる反面、絢爛豪華な舞台芸術こそが三島の本領だとされるのも様々に衣装を変えるゲイのヴォードヴィル・ショウを連想すると納得がいく。

映画は、前者はいかにもアメリカの佳作ドキュメンタリー映画という感じだが、反同性婚法案を憲法訴訟で違憲無効にするのだから、「中世」といわれる日本の司法制度からするとお伽の国の話に見える。ロールズ的な正義の二原理は68年への反革命だというすが秀実氏の批判もあるし、同性カップルに婚姻を認めることが進歩といえるのかという疑念もあるのだろうが(同棲と婚姻の境界を取り払うべきという主張)、マイノリティの権利を州レベルで認めてそれを憲法で援護射撃することでアメリカの国家としての寛容さを見せる点は、やはり日本とは政治と社会の成熟度が違う。日本ではLGBT問題に限らず、マイノリティをめぐる政治問題は意識化することすらタブーであるという恐ろしく野蛮な状態がいまだに続いているのではないか?上乗せ条例によって同性婚を認めた都道府県などどこにもないし、法科大学院民法の授業では同性婚は話題にならないだけでなく、教員も学生も自分たちに関係のないトピックだと考えている(水田耕作を中心とした食料生産と家族形成のイデオロギー。そんなに古いのか?と思うかもしれないが、堂々たる古さである)。婚姻制度の当否を議論するのは勿論意義あることだが、現実に日本においてはマイノリティのパブリック・エンパワーメントが絶望的に弱く、その機会も「機会は形式的に平等にするが試験内容は徹底的に不平等なままにする」という「separate but equal」の論理でしか提供されないという事実も同時に見るべきだろう。

後者は前2作に較べると普通の作品で、倦怠期を迎えたレズビアン・カップルが不倫を経てお互いの絆を確認しあう話。LGBTのカップルもカップルとして抱える困難はヘテロとパラレルであり、普通の市民であるということ。

今回はとにかく映画祭の存在を知ることができたことが収穫だった。予備知識が何もなかったがゆえに、LGBT映画に先入観なく出会うことができ、クオリティの高さを堪能することができた。田亀氏の解説を見ると目玉のゲイ映画3本は全て見たほうがよさそうだ、というか、それ以外の映画も全部クオリティが高そうで食指が伸びるのだが、今回は予定が合わないので仕方がない。まだ見ぬ傑作に出会うのは次の機会に譲ろう。

(追記)
 座談会のリンク。

http://www.youtube.com/watch?v=AEIA-j0LbKk


 思考実験としてセクシャル/ジェンダー・マイノリティの問題と憲法(人民憲章)を通じた人権の実現の問題を考えてみる。すが氏がいうように憲法による人権の実現が無理だとすると、憲法(24条)、民法(第四編、第二章)の改正による同性婚の法制化の目はないことになり、同性カップルはいつまでも同棲状態に止まることになる。それは彼/女たちが常に誇り高い自由人であり、法律、税制、社会慣習との衝突における煩雑な対応について、これら一つ一つ正確に対応できる強さを求められることを意味する。それはハイ・インテンシティな人生の強制である。これはやはり無理がある。インテンシティを持って生きられるのはいわばナチュラルな貴族であり、貴族を基準にスタンダードを決めればその他大勢はオーダーから脱落するほかない。同性婚の可能性を否定して同棲の全面化だけ目標とすると、生活は息苦しくなる。同性婚の推進に対してむしろ婚姻と同棲(内縁)の境界を取り払うべきだという主張は理論的には正しいが、マイノリティに付随するハンディキャップを無視している。婚姻と同棲を自由に選べる境遇にあって自発的に同棲を選び、それが社会全体の流れになることを目指すというのは異性愛者のプログラムである。マイノリティに最初から婚姻の自由はなく、「正義」は「一夫一婦制の保護」の名目の元、同棲以外の選択肢を認めていないのだ。勿論、かかる「正義」のプログラムに基づいて「一夫一婦制」には様々な保護がツリー状に存在する。この統治システムの不平等を見ないで原理原則論を掲げると結果的にマイノリティを追い詰めることになる。ましてや、法改正による同性婚のフォーマル化を求めると伝統主義的な政治的支配階級の機嫌を損ねるから、セクシャル・マイノリティ・カップルのフォーマルな評価は内縁=同棲に止まったほうがいい、などと「諫める」ことは保守反動の人権侵害以外の何者でもないだろう。
 マイノリティに必要なのはネオリベ的な消極的自由ではなく、諸々のマイノリティの特性に応じたサポートとしての社会政策であろう。その意味で同性婚の導入はセクシャル・マイノリティの自由を充たす一歩となるはずである。方法は?民法改正を求める憲法訴訟、が正攻法になるだろうか?しかし、これだと大きな訴訟になるので自治体に上乗せ条例の制定を求める陳情(という言葉は嫌いなのだが)をすることになるのか?人権問題を身近なレベルで実現していくルートが日本では本当にわかりにくい。伊藤真が英雄であるような前時代的な状況は変えなければならない。