フィクションの真実はどこにある?

 すが秀実氏の評論のタイトルである。
 1968年に起こった学生反乱である全共闘運動をめぐる歴史修正主義に対する批判。東浩紀氏、あるいは名前は出ていないが大塚英志氏の論文への言及から始まるが、これは露払いで、本丸は小熊英二氏の『1968』への批判である。

 まず前提となる東、大塚氏のキャラクター小説論によると、産業資本主義による経済発展が終わり、個人=国民に内面規律を求める近代社会が終わると、達成すべき目的=新しい価値の実現を失うことで社会はヒエラルキーを成立させる価値序列を失い全ての価値が同一平面上で等価に置かれる「ポストモダン」社会になる。かかる「ポストモダン」社会においては新しい価値を告げる「炭鉱のカナリア」として機能してきた近代小説は価値を失い、(ここからはイデオロギーだが)アナクロニスティックな超人性を備え、等身大の人間の実人生から遊離した擬人的存在(キャラクター)が人気を博す(例えば、吸血鬼、幽霊、九尾の狐、etc)。かかるパワフル且つ荒唐無稽な非政治的世界では、登場人物の名前は擬人化されたパワーに便宜上つけられたものにすぎないので、なんでもいい。例えば、海賊の名前はジャック・スパローでもモンキー・D・ルフィでもあるいは、0でも1でも甲でも乙でもいい。
 こうした娯楽作品はゲームを通じて生の一回性を知るためというよりも、端的に政治権力にとって無害なために大規模資本の流通に乗って莫大な利益を挙げる。 

 以上がキャラクター小説論と、これに対する私個人による批判である。

 これだけだと娯楽産業の理論的な擁護にしかならないので政治的な議論にはならないが、すがはかかる娯楽(出版、映画)産業の投下資本回収イデオロギーを小熊英二の『1968』に見いだす。
 まず、この本の記述には単純に実証的な間違いが多数存在し、研究論文として致命的に問題がある。そのため、これは科学的な研究でも歴史的な記述でもなく「小説」だという判断をする。しかし、そうだとしてもあまりにも多い実証的な間違いはケアレスミスではなくそもそもパースペクティブに問題があるからだと指摘する。
 そのミスリーディングとは、1968年の学生運動は少なくと日本においては経済成長の終焉によって目的を失った子供が自分探しの最中に起こしたヒステリーであり、なんの政治的目的もなかったというものである。

 かかる小熊の主張に対してすがは当然のこととして68年が構造主義とマイノリティ・ムーブメントを生んだことを指摘する。そして、ここからが本題だが、歴史叙述について小熊のような単純な錯誤が生じるのは、現代社会における歴史叙述が「ポストモダン」的な「キャラクター小説」と化しているからであり、キャラクター小説=ライトノベル作家となった歴史家からすると廣松渉も岩田弘も理論家ではなく、スパローやルフィのような軽薄な熱狂の対象にすぎないのだろう、と結論づける。

 ここまでくるとすがの主張がイロニー(嫌味)であることがわかるだろう。要するに、すがは、研究者・歴史家として学生運動の歴史を書くならモニュメントとして、運動と活動家を祝福するものとしてきちんと書け、活動家に対して敬意を払え、しかし、そんな意思は最初からないのだろう?そんな人間に68年について書く資格はない、といっているのだ。
 当然の主張である。

 すがの主張は娯楽産業によって政治的主張を割り引くことが多様化ではなく最悪の大衆化に陥ることへの批判といってよい。政治がアジェンダを失い、文化がステータスを失うことで利益を得るのは大衆文化である。全てが同一平面にあるというと、社会がフェアになったと錯覚するが、そうではない。個でタテの緊張感を持てないアトム化した人間が際限なく同化を行うため、通俗さの専制による煉獄が出現するのだ。その意味では、この論文のテーマは「政治の娯楽化のもつ反革命性」である。