帝国の構造

 柄谷行人の『帝国の構造』を読む。

 今回の本がブレイクしたように見えるのは中華帝国を中心とした冊封体制の分析の中で日本の政治権力の正統性の問題(「天」のような超越的な概念を欠いていること)に切り込んでおり、それが政治的展望を開くように見えるからだ。要するに日本論であり、『帝国の構造』とは「天皇制の起源」の解析格子なのだ。国家を国際関係におけるリフレクションとして見ること。共同体の外膜としての国家は、言語体系と同様に、箱に風船を詰め込むように一挙に分節化される。byではなくwholeで見る。ざっと読むだけでも記述が粗いのではないかと思える部分があるし、中島一夫氏の批判などもあるが、双系制や漢字かな交用などかつて抽出され、そのままになっていた伏線が回収されており、滋養の高さを感じる。

 国家は他の国家に対してのみ国家であるということはセックスについてもいえないか?異性愛は他のセクシュアリティに対してのみ異性愛である。異性愛絶対王政から、多様なセクシュアリティモナドとして林立する性の帝国へ。決して無知の楽園としてのL’Empire des sensではなく、le gai savoirとしての性の帝国を考えられないか。一般には、セックスは生殖行為であるとすることから、その他のアモラル、インモラルな性行為は道徳的な罪とされるが、そもそも多様なセクシャリティが一挙に分節化するのだとしたら、生殖に向けられた異性愛を頂点としたヒエラルキー脱構築することが可能だ。楽観的すぎるだろうか?

 概念はパノラマを獲得する。

 ノマドとかまだあんなこといってる。新自由主義なんですよ。→俺のことだな(笑


 http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20140215_2


 襞に重ねて襞を。要するにノートでいい。

 帝国、周辺、亜周辺(教師、優等生、不良(?))。この概念だけでかなり見通しが良くなる。日本は亜周辺だから原理や理論が根付かないし、逆に資本主義だけは抵抗なく受容した。この構図は知的分析というよりも野蛮さの説明に有用なものであり、あまり簡単に受容するのも問題だが、この見通しに従うなら、日本の近未来に肯定的な展望を見いだすことは難しい。なぜなら、権威そのものがいい加減であるならば、国内でそれがオーソリティであることを前提にして行う批判は無力であり、外国からの軽蔑によってしか日本の前近代性は治癒しないからだ。「亜周辺」という言葉は政治的批判が根付かない日本の後進性に見切りをつけるためにひっぱり出されたものだと思うが、この概念が得られたことでもたらされる示唆は大きい。
 すが秀実氏の挑発的な主張も、ネガティブに読むと左翼活動家によるリベラル批判ではなく、単に「亜周辺」的な「伝統」を崩すことのない既成権力(へ)の正当化(同化)論として読めてしまう。この悲観と無気力を生み出す読みはドミナントになる蓋然性が高い。勿論、すが氏はユーモラスな(というよりもおちゃらけとポエジーの共存した)姿勢を崩すことのない「全共闘活動家」=新左翼、文芸批評家、且つ思想史家である点で一貫しているが、反植民地主義?としてブルジョワ革命が起こったという日本の歴史的紆余曲折のせいでストレートな批判が力を持てずに権力に吸収されるという困った言論状況がある。前にも書いたが、正しい前衛が当然の作用として啓蒙を批判すると、端的な暴力と無知(権力と大衆)がこれを「誤用」して最低限の啓蒙を潰しにかかる。これが左翼=ラディカルの直面する日本的な困難なのではないか(このアホな誤解を黙らせる方法は、左翼としての旗幟を鮮明にすること以外にない。しかし、おもしろ批評家−活動家のすが氏にとってはそうした強い主張を表に出すことはかったるくて仕方がないのではないか?自分が新左翼なのは見ればわかるだろう?国家権力に対抗するためとはいえ旧左翼的なことなどできるはずがない、と)。すが氏は啓蒙を二人羽織りするような面倒くさいことはせず、左翼前衛であろうとする。それゆえに悪い襞をもった日本の政治状況の中でますます困難な場所へ追いやられる。近年のすが氏は『タイムスリップの断崖で』の中で繰り返し新自由主義を批判し、単なる市民運動では近代右翼に政治運動が吸収されてしまうことについて警鐘を鳴らし、暗黙に前衛党=理論的芯が必要なことを訴えている。これはまったく正しい指摘であるが、同時に現在最も困難な理論的試みではないか。

 日本が戦後民主主義と高度成長の果実を未来につなぐには平和憲法の普遍化しかないが、左翼と保守双方の好戦的な勢力が同時に望むとおり、これを担う政治勢力は現状では小さい。メディアで多くの護憲の文字が踊るのに反して、日本の9条護持はあくまで一国平和主義的なもので、理念としてこれを世界規模で普遍化する努力はまったく行ってこなかった。保守は19世紀的な国家主権を回復するために、武闘派左翼は暴力革命の政治的支持を容易にし、且つ武器と兵士の調達をも容易にするために、9条を消去することを暗黙に、そしてときに公然と望んできた。国家が国際社会の平和と太平洋戦争の惨禍の反省に基づいて成り立っているにも関わらず、真摯に9条の可能性を考えてきた者は少ないのだ。9条の価値を現実的だと感じられる一つの強い存在は海外居住経験者かもしれない。国家間の緊張とミクロな外交関係にさらされて、人は初めて歴史を主体化することができる。国際社会において「亜周辺」的な野蛮さは許されない。原理的に振る舞うことが不可避的に要請されるのだ。
 団塊jr=全共闘jrは好戦的で反平和憲法の人間が多い。リバタリアニズムを奉ずる彼らにはいも虫的な直進性があり、原理のもつ空間的被拘束性を理解していない。これに対して私的に知る限り、端的な全共闘はしばしばオーソドックスな平和主義者だったりするのだが...。
 我々は亜周辺的な「庶民」ではなく帝国?的な「市民」としてどれほど9条と普遍的な理念を担えるだろうか?

(※ 政治状況はどんどん悪くなっている。すが氏は運動は面白くなければならない。社会党のように「逆コース」などといって意気消沈させると学生が盛り上がらないと愚痴っていたが、実際に逆コースなのだから、はっきり指摘しないといけない。専制ポピュリズム(現在はマス・オプティミズムというようだ。ポピュリズム自体にはアメリカちにおける理想主義的な意味合いもある)が同時進行し、民主主義の空洞化が顕著だ。これが日本の戦後民主主義の実質的な価値なのか?ナチス・ドイツのような飛躍はないだろうが、スペインのフランコ政権や中南米やアジアの親米傀儡政権のようにはなりそうな気がする。さまざまな混乱の中で戦後の果実が潰されようとしている。誰に?ならず者とパペットたちに。)

 (※2 柄谷行人の暴力による支配論(交換様式Bの考察)はある意味で理想の番長の考察である。それは外山恒一が「サムライのほうが商人よりエライ世界にしないといけない」というときの「サムライ」も同じである。暴力による支配は悪いに決まっている。番長は野蛮で、彼の権力の源泉はその類希な腕力にかかっている。彼はワルである。しかし、単に乱暴なだけの番長には不良仲間はついてこないし、一般学生の支持も弱い。恐怖による支配は長く続かない。番長は暴力で学校を支配する代わりに被支配者の面倒を見なければならない。利益だけを得られる暴力は存在しない。ワルにはワルの責任があるのだ。

現在の新自由主義新帝国主義国は国家暴力=交換様式Bからの解放と称して各国に軍事介入を行なっているが、これはウソである。市場は空気や物理法則のように普遍的な存在ではなく、特定の暴力組織の保護があって初めて存在するものであり、つまりはその暴力組織の利害の共犯者でしかない。市場経済と民主主義が人類の最高の達成であるから、ワイン畑を作るように地球上のあらゆる国の非民主的な政治体を破壊して、民主政体とグローバル市場を落下傘で落とせば、その土地の人間は最大の幸福を得る、そして幸福を手に入れていない人間の手助けをすることで新自由主義者が利益を得ることは正当なことであると考えているとしたら愚劣極まりないことだ。
市場(交換様式C)が暴力組織(国家=交換様式B)なしには存在しえない以上、一国の暴力組織が他国の暴力組織を破壊することは侵略国が被害国を政治的、経済的に破壊し、支配すること以外を意味しない。被害国の暴力組織を滅亡させた後に単にグローバル市場経済だけを被害国に導入すれば、それは被支配地域の市場を破壊し、侵略者の市場がこれに代替すること以外を意味しない。それは侵略国が侵略地域に暴力による支配を行いながら被害国の統治について政治責任を回避し、金儲けだけをすることだ。このような政治責任を負わない番長は、学園支配の正統性をもたず、もはや番長としての存在意義をもっていない。それは最悪の恐怖政治=無政府状態をもたらす。(後れた国のワルい政府を進んだ国の良い政府が潰してあげて、代わりに新しくて良い政府を作ってあげれば、その土地の人が喜ぶと考えるのはアホである。というよりも、このアホな政治理論をパワープレーで押しつけられると考えていることが卑劣である。)
番長がワルなのは当然である。暴虐の限りを尽くしていようと、相対的にマシであろうと、番長である以上は等しくワル以外ではない。善なる番長が悪の番長を倒すことはない。番長同士のケンカは所詮は悪党の番長を相対的にマシな番長が非難するという程度のものでしかない。「ワルい番長がいる」→「じゃあ、僕がそいつをやっつければ悪が消えてみんな幸せになるね」という行動は解決にならないのだ。番長はどんな者でも存在そのものが悪なのであり、番長の悪を解決するためには、番長という政治概念のもつ哲学的問題を解決しなければならない。特定の番長の生命を奪って存在を消しても困難の解決は意味しないのだ。こうした理論的知識を理解せずに自分だけは善で他人は全て悪だと名乗る者には番長を名乗る資格がない。そして、この意味で、どれほどワルい番長であっても、ワルである限りにおいては、番長としての支配には(一応)正統性がある。
上に示したのが「無知で幼稚な番長」が特定の番長を攻撃することの愚かさだとしたら、現在我々が直面しているのはこれを一歩進めた「卑劣な番長」による支配である。卑劣(ズルイ)な番長にはもはや(あるいはそもそも)番長の資格がない。どういうことか?繰り返し述べるが、どんなに悲惨な支配であっても、腕力による支配である限りにおいて、番長は学園の支配者として正統性をもつ。彼は腕力において敗北すれば学園を去るほかないし、支配しつつも「面倒を見る」義務から逃げられない。しかし、腕力で支配しながら「面倒をみる」義務から逃げる番長がいたらどうか?支配はするが、子分の面倒はみない。そんなことがどうやったら可能になるのか?番長と支配される子分の間を機械(モノ)によって分断するのだ。始め、子分は番長のワルさにビビっているから彼に従っていたはずが、いつの間にか「面倒見」を代行すると称する機械に支配されている。機械による支配が番長による支配だといわれると子分は機械に逆らえない。最初の支配には恐怖や暴力はあっても、そこには支配者と被支配者との感情の交流があった。子分はビビっていたからこそ番長に服従したのだ。しかし、機械による支配には心理的な動機がない。そこにあるのは他者を欠いた昆虫的暴力と奴隷として生きることだけを許された、遺棄された子分たちの悲惨な姿でしかない。そこからは、「ビビったから従った」という支配の原初的で本質的な姿が消えているのだ。それは永遠の宙づりの形をとった政治の抹消である。そして、この政治の抹消こそが、支配に責任を持たない、「ヒレツな番長」による支配の構造である。
どれほどワルであっても、番長がワルであることはヒトの属性であり、支配は政治的である。そこには学園=国家がある。しかし、ヒレツな者の支配は昆虫/動物的であり、それはモノによるモノの支配である。利殖術(損小利大)とテクノロジー(工学)による支配だ。支配はもはや政治ではない。政府がモノへと堕落し、ヒトとしての義務を放棄したならば、統治のための根源的な信約(社会契約)は契約不履行となる。自らが利殖とテクノロジーに支配されるモノではなく、生まれ、愛し、死んでいくヒトであることに目覚めた被支配者はガラクタと化した政府を破壊し、理想的な政府、あるいは普通の番長を回復することができる。
それは革命、政治=歴史の新規巻き直しといってよい。「歴史は終わってない」のだ。
(※aこれはフーコーの『生政治の誕生』の内容でもある。)
(※b理想の番長論は理想の番長マンガ実現論といっていい。これは外山がファシズムを主張する際に参照した福田和也にも当てはまる。要するに空条承太郎剣桃太郎待望論である)
(※c「番長」→教師、「ワル」→権威主義、「ビビる」→尊敬するに変えると法科大学院の問題になる。こうして見ると法科大学院問題が新自由主義植民地主義の失敗の典型例であることがわかる。アメリカ型司法制度の機械的移植にすぎないからこそ無残に失敗したのだ。)
(※d 植村先生 『いやぁ、実際ワルはワルですから…賛美しとるわけじゃありません…しかし、ワルいのがズルくなってはイカンでしょう』
湘南爆走族 完全版7巻』講談社 ...少年画報社ではなく講談社から出ているものを紹介しなければならないのが残念だ。

https://www.youtube.com/watch?v=wA1XZSjN3bc)