日本の司法はアメリカ的な近代性を獲得できるか?

民法行政法、に限らず、法律の勉強をしているとうんざりしてくる。アメリカのテレビドラマ、映画、ドキュメンタリーのようにクリアーでロジカルな法廷を作ることは日本では無理なのではないか。論理ではなく土俗的な虚栄心が先行し、法学生にも批判精神が薄く、立法に改善の見込みがない。「革命ではなく漸進的改革を」とは内田貴による民法の教科書の序文の言葉だが、あれから20年が経っても刑法が口語化され、やっとこさ婚外子相続差別違憲判決が出た程度でしかない。これでは「漸進的改革」で人権を実現するのは不可能である。人権が実現されてから人生を始めるのでは先に人生が終わってしまう。公的権威は置き去りにして勝手に生きることが正しい。60年経って法典の口語化しかできないならば、100年経っても内容の不当が改正されることはないだろう。せいぜい条文がアルファベットに変わるくらいか。

文芸批評家のすが秀実氏はロールズ的なリベラルな人権が実現できるのはアメリカ一国だけで、日本(のみならずEU)でアメリカのように裁判によって人権を実現していくのは無理ではないかということを評論で述べている。文芸批評家であるすが氏の主張は哲学的考察に基づいたものである。
裁判で少数者の人権の実現はできず、(暴力)革命による政治制度のポジティブな転換もないとしたら、少数者は生涯公の場所で生きることができないことになる。
すが氏は学生運動と文学こそがが革命だという(逆にいうと、国家権力、資本、大衆的無知のインペリウムは鉄壁である)。自己実現、あるいは革命(?)の展望はさておき、私に文学と学生運動が必要なことは確かなようだ。法曹界には全てを変える根本的な地殻変動が必要である。「全てを変える」などという人間は必ず失敗する。しかし、失敗が要請される程度には矛盾が堆積している。大きな賭けが大して世の中を変えないことは歴史の教えるところだ。とすると、自由を求める者には破滅しかないというブラック・ジョークのような状況にあるということか。
規律訓練型権力を批判していたフーコーが早すぎた晩年に自己形成されるような自己抑制の技術を探求していたが、権力の挑発に乗らずに単独的であり続けるためには高い自己規律をを持つほかないのではないか。革命はない。裁判による自己実現もない。しかし生き続けなければならないとするなら、そこにあるのはマイノリティとして自己規律をもって生きること以外にない。つまり、マイノリティはインテンシティ(強度)を強制されており、怠惰や弛緩から排除されている。ロジックに則った楽天的な展望を持てないのだとしたら、生はヴァーチュアルなものでしかありえず、ヴァーチュアルな者が本来性をオルタナティブな領域にプールしておくためにはインテンシティ=自己規律によってこれを実生活に繋ぐほかない。結局、インテンシティが不可欠ということになる。

いわゆるポストモダン論はマイノリティが強い主体性を持つことへのアンチテーゼ(マルクス主義脱構築)として受容された。マジョリティに対してカウンター的に形成される「強い主体」はかえって新たな抑圧を生み出すだけだ。だったら主体形成を意思しないで、自然成長性による素直な認識を維持するほうがよいのではないか、と。だから、人間性や強さを避け、動物性や弱さを強調するのは通俗的ポストモダン論の当然の帰結である。しかし、これまた当然の帰結として、動物性と弱さは国家、資本、大衆への無際限な迎合を生み、その結果としてマイナー性を失った。当たり前だが、単に人間性や強さに反発してもマイナーな自己実現にはならないのだ。必要なのは支配者とマラーノの間でマイナーな人間性を作り出すことであり、強い主体性と無気力の間でしなやかな認識を持つことである。概念を作り出すためにはインテンシティが必要である。主体性は回避してもインテンシティを失ってはならない。

 いとうせいこう氏のラジオ「トーキングセッション」を聞いたが、法に対するナイーブな認識に考えさせられる。私は福島での原発事故以来、広範に真摯なテクストを発表し続けるいとう氏の活動に感銘を受けている。ハイクオリティなテクストが襞となって積み重なり、矢継ぎ早に発表される小説の水準は高く、東京新聞での対談も素晴らしい。ただ、このラジオ放送中の法の官僚的な無びゅう性への信頼については、理論的にはそうあらねばならない反面、日本の法曹界が実務レベルでは最悪の経験主義に依っているという事実を知らないと感じる。いとう氏に限らず文学者は法律関係者の虚飾、無責任や暴力的な側面を見ようとしない。法が理想主義的な当為であることと支配者=法律家がアウグスティヌス-シュトラウス的な意味での犯罪者であることを同時に見ない限り、文学が法律の世界を描くことはできない。
 國分功一郎との対談冒頭で述べている「低いところからくるおぞましい権力」への言及に見られるとおり、いとう氏の小説家・ラッパーとしての政治感覚は鋭敏である。そのいとう氏をもってしても法曹界についてはステレオタイプな認識が出てくるのは、天皇制のスクリーンによって裁判の「世界」を直視することができないようになっているからではないか。
 ...いや、話の流れでたまたま必要なことをいっているだけで、そんなことはいとう氏は当然に知っている気がしてきた。私がナーバスになりすぎているのだろう。

 五木さんの話は面白い。まさか『進撃の巨人』にヤヤ・トゥーレまで出てくるとは(笑。

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