帝国の構造

 柄谷行人の『帝国の構造』を読む。

 今回の本がブレイクしたように見えるのは中華帝国を中心とした冊封体制の分析の中で日本の政治権力の正統性の問題(「天」のような超越的な概念を欠いていること)に切り込んでおり、それが政治的展望を開くように見えるからだ。要するに日本論であり、『帝国の構造』とは「天皇制の起源」の解析格子なのだ。国家を国際関係におけるリフレクションとして見ること。共同体の外膜としての国家は、言語体系と同様に、箱に風船を詰め込むように一挙に分節化される。byではなくwholeで見る。ざっと読むだけでも記述が粗いのではないかと思える部分があるし、中島一夫氏の批判などもあるが、双系制や漢字かな交用などかつて抽出され、そのままになっていた伏線が回収されており、滋養の高さを感じる。

 国家は他の国家に対してのみ国家であるということはセックスについてもいえないか?異性愛は他のセクシュアリティに対してのみ異性愛である。異性愛絶対王政から、多様なセクシュアリティモナドとして林立する性の帝国へ。決して無知の楽園としてのL’Empire des sensではなく、le gai savoirとしての性の帝国を考えられないか。一般には、セックスは生殖行為であるとすることから、その他のアモラル、インモラルな性行為は道徳的な罪とされるが、そもそも多様なセクシャリティが一挙に分節化するのだとしたら、生殖に向けられた異性愛を頂点としたヒエラルキー脱構築することが可能だ。楽観的すぎるだろうか?

 概念はパノラマを獲得する。

 ノマドとかまだあんなこといってる。新自由主義なんですよ。→俺のことだな(笑


 http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20140215_2


 襞に重ねて襞を。要するにノートでいい。

 帝国、周辺、亜周辺(教師、優等生、不良(?))。この概念だけでかなり見通しが良くなる。日本は亜周辺だから原理や理論が根付かないし、逆に資本主義だけは抵抗なく受容した。この構図は知的分析というよりも野蛮さの説明に有用なものであり、あまり簡単に受容するのも問題だが、この見通しに従うなら、日本の近未来に肯定的な展望を見いだすことは難しい。なぜなら、権威そのものがいい加減であるならば、国内でそれがオーソリティであることを前提にして行う批判は無力であり、外国からの軽蔑によってしか日本の前近代性は治癒しないからだ。「亜周辺」という言葉は政治的批判が根付かない日本の後進性に見切りをつけるためにひっぱり出されたものだと思うが、この概念が得られたことでもたらされる示唆は大きい。
 すが秀実氏の挑発的な主張も、ネガティブに読むと左翼活動家によるリベラル批判ではなく、単に「亜周辺」的な「伝統」を崩すことのない既成権力(へ)の正当化(同化)論として読めてしまう。この悲観と無気力を生み出す読みはドミナントになる蓋然性が高い。勿論、すが氏はユーモラスな(というよりもおちゃらけとポエジーの共存した)姿勢を崩すことのない「全共闘活動家」=新左翼、文芸批評家、且つ思想史家である点で一貫しているが、反植民地主義?としてブルジョワ革命が起こったという日本の歴史的紆余曲折のせいでストレートな批判が力を持てずに権力に吸収されるという困った言論状況がある。前にも書いたが、正しい前衛が当然の作用として啓蒙を批判すると、端的な暴力と無知(権力と大衆)がこれを「誤用」して最低限の啓蒙を潰しにかかる。これが左翼=ラディカルの直面する日本的な困難なのではないか(このアホな誤解を黙らせる方法は、左翼としての旗幟を鮮明にすること以外にない。しかし、おもしろ批評家−活動家のすが氏にとってはそうした強い主張を表に出すことはかったるくて仕方がないのではないか?自分が新左翼なのは見ればわかるだろう?国家権力に対抗するためとはいえ旧左翼的なことなどできるはずがない、と)。すが氏は啓蒙を二人羽織りするような面倒くさいことはせず、左翼前衛であろうとする。それゆえに悪い襞をもった日本の政治状況の中でますます困難な場所へ追いやられる。近年のすが氏は『タイムスリップの断崖で』の中で繰り返し新自由主義を批判し、単なる市民運動では近代右翼に政治運動が吸収されてしまうことについて警鐘を鳴らし、暗黙に前衛党=理論的芯が必要なことを訴えている。これはまったく正しい指摘であるが、同時に現在最も困難な理論的試みではないか。

 日本が戦後民主主義と高度成長の果実を未来につなぐには平和憲法の普遍化しかないが、左翼と保守双方の好戦的な勢力が同時に望むとおり、これを担う政治勢力は現状では小さい。メディアで多くの護憲の文字が踊るのに反して、日本の9条護持はあくまで一国平和主義的なもので、理念としてこれを世界規模で普遍化する努力はまったく行ってこなかった。保守は19世紀的な国家主権を回復するために、武闘派左翼は暴力革命の政治的支持を容易にし、且つ武器と兵士の調達をも容易にするために、9条を消去することを暗黙に、そしてときに公然と望んできた。国家が国際社会の平和と太平洋戦争の惨禍の反省に基づいて成り立っているにも関わらず、真摯に9条の可能性を考えてきた者は少ないのだ。9条の価値を現実的だと感じられる一つの強い存在は海外居住経験者かもしれない。国家間の緊張とミクロな外交関係にさらされて、人は初めて歴史を主体化することができる。国際社会において「亜周辺」的な野蛮さは許されない。原理的に振る舞うことが不可避的に要請されるのだ。
 団塊jr=全共闘jrは好戦的で反平和憲法の人間が多い。リバタリアニズムを奉ずる彼らにはいも虫的な直進性があり、原理のもつ空間的被拘束性を理解していない。これに対して私的に知る限り、端的な全共闘はしばしばオーソドックスな平和主義者だったりするのだが...。
 我々は亜周辺的な「庶民」ではなく帝国?的な「市民」としてどれほど9条と普遍的な理念を担えるだろうか?

(※ 政治状況はどんどん悪くなっている。すが氏は運動は面白くなければならない。社会党のように「逆コース」などといって意気消沈させると学生が盛り上がらないと愚痴っていたが、実際に逆コースなのだから、はっきり指摘しないといけない。専制ポピュリズム(現在はマス・オプティミズムというようだ。ポピュリズム自体にはアメリカちにおける理想主義的な意味合いもある)が同時進行し、民主主義の空洞化が顕著だ。これが日本の戦後民主主義の実質的な価値なのか?ナチス・ドイツのような飛躍はないだろうが、スペインのフランコ政権や中南米やアジアの親米傀儡政権のようにはなりそうな気がする。さまざまな混乱の中で戦後の果実が潰されようとしている。誰に?ならず者とパペットたちに。)

 (※2 柄谷行人の暴力による支配論(交換様式Bの考察)はある意味で理想の番長の考察である。それは外山恒一が「サムライのほうが商人よりエライ世界にしないといけない」というときの「サムライ」も同じである。暴力による支配は悪いに決まっている。番長は野蛮で、彼の権力の源泉はその類希な腕力にかかっている。彼はワルである。しかし、単に乱暴なだけの番長には不良仲間はついてこないし、一般学生の支持も弱い。恐怖による支配は長く続かない。番長は暴力で学校を支配する代わりに被支配者の面倒を見なければならない。利益だけを得られる暴力は存在しない。ワルにはワルの責任があるのだ。

現在の新自由主義新帝国主義国は国家暴力=交換様式Bからの解放と称して各国に軍事介入を行なっているが、これはウソである。市場は空気や物理法則のように普遍的な存在ではなく、特定の暴力組織の保護があって初めて存在するものであり、つまりはその暴力組織の利害の共犯者でしかない。市場経済と民主主義が人類の最高の達成であるから、ワイン畑を作るように地球上のあらゆる国の非民主的な政治体を破壊して、民主政体とグローバル市場を落下傘で落とせば、その土地の人間は最大の幸福を得る、そして幸福を手に入れていない人間の手助けをすることで新自由主義者が利益を得ることは正当なことであると考えているとしたら愚劣極まりないことだ。
市場(交換様式C)が暴力組織(国家=交換様式B)なしには存在しえない以上、一国の暴力組織が他国の暴力組織を破壊することは侵略国が被害国を政治的、経済的に破壊し、支配すること以外を意味しない。被害国の暴力組織を滅亡させた後に単にグローバル市場経済だけを被害国に導入すれば、それは被支配地域の市場を破壊し、侵略者の市場がこれに代替すること以外を意味しない。それは侵略国が侵略地域に暴力による支配を行いながら被害国の統治について政治責任を回避し、金儲けだけをすることだ。このような政治責任を負わない番長は、学園支配の正統性をもたず、もはや番長としての存在意義をもっていない。それは最悪の恐怖政治=無政府状態をもたらす。(後れた国のワルい政府を進んだ国の良い政府が潰してあげて、代わりに新しくて良い政府を作ってあげれば、その土地の人が喜ぶと考えるのはアホである。というよりも、このアホな政治理論をパワープレーで押しつけられると考えていることが卑劣である。)
番長がワルなのは当然である。暴虐の限りを尽くしていようと、相対的にマシであろうと、番長である以上は等しくワル以外ではない。善なる番長が悪の番長を倒すことはない。番長同士のケンカは所詮は悪党の番長を相対的にマシな番長が非難するという程度のものでしかない。「ワルい番長がいる」→「じゃあ、僕がそいつをやっつければ悪が消えてみんな幸せになるね」という行動は解決にならないのだ。番長はどんな者でも存在そのものが悪なのであり、番長の悪を解決するためには、番長という政治概念のもつ哲学的問題を解決しなければならない。特定の番長の生命を奪って存在を消しても困難の解決は意味しないのだ。こうした理論的知識を理解せずに自分だけは善で他人は全て悪だと名乗る者には番長を名乗る資格がない。そして、この意味で、どれほどワルい番長であっても、ワルである限りにおいては、番長としての支配には(一応)正統性がある。
上に示したのが「無知で幼稚な番長」が特定の番長を攻撃することの愚かさだとしたら、現在我々が直面しているのはこれを一歩進めた「卑劣な番長」による支配である。卑劣(ズルイ)な番長にはもはや(あるいはそもそも)番長の資格がない。どういうことか?繰り返し述べるが、どんなに悲惨な支配であっても、腕力による支配である限りにおいて、番長は学園の支配者として正統性をもつ。彼は腕力において敗北すれば学園を去るほかないし、支配しつつも「面倒を見る」義務から逃げられない。しかし、腕力で支配しながら「面倒をみる」義務から逃げる番長がいたらどうか?支配はするが、子分の面倒はみない。そんなことがどうやったら可能になるのか?番長と支配される子分の間を機械(モノ)によって分断するのだ。始め、子分は番長のワルさにビビっているから彼に従っていたはずが、いつの間にか「面倒見」を代行すると称する機械に支配されている。機械による支配が番長による支配だといわれると子分は機械に逆らえない。最初の支配には恐怖や暴力はあっても、そこには支配者と被支配者との感情の交流があった。子分はビビっていたからこそ番長に服従したのだ。しかし、機械による支配には心理的な動機がない。そこにあるのは他者を欠いた昆虫的暴力と奴隷として生きることだけを許された、遺棄された子分たちの悲惨な姿でしかない。そこからは、「ビビったから従った」という支配の原初的で本質的な姿が消えているのだ。それは永遠の宙づりの形をとった政治の抹消である。そして、この政治の抹消こそが、支配に責任を持たない、「ヒレツな番長」による支配の構造である。
どれほどワルであっても、番長がワルであることはヒトの属性であり、支配は政治的である。そこには学園=国家がある。しかし、ヒレツな者の支配は昆虫/動物的であり、それはモノによるモノの支配である。利殖術(損小利大)とテクノロジー(工学)による支配だ。支配はもはや政治ではない。政府がモノへと堕落し、ヒトとしての義務を放棄したならば、統治のための根源的な信約(社会契約)は契約不履行となる。自らが利殖とテクノロジーに支配されるモノではなく、生まれ、愛し、死んでいくヒトであることに目覚めた被支配者はガラクタと化した政府を破壊し、理想的な政府、あるいは普通の番長を回復することができる。
それは革命、政治=歴史の新規巻き直しといってよい。「歴史は終わってない」のだ。
(※aこれはフーコーの『生政治の誕生』の内容でもある。)
(※b理想の番長論は理想の番長マンガ実現論といっていい。これは外山がファシズムを主張する際に参照した福田和也にも当てはまる。要するに空条承太郎剣桃太郎待望論である)
(※c「番長」→教師、「ワル」→権威主義、「ビビる」→尊敬するに変えると法科大学院の問題になる。こうして見ると法科大学院問題が新自由主義植民地主義の失敗の典型例であることがわかる。アメリカ型司法制度の機械的移植にすぎないからこそ無残に失敗したのだ。)
(※d 植村先生 『いやぁ、実際ワルはワルですから…賛美しとるわけじゃありません…しかし、ワルいのがズルくなってはイカンでしょう』
湘南爆走族 完全版7巻』講談社 ...少年画報社ではなく講談社から出ているものを紹介しなければならないのが残念だ。

https://www.youtube.com/watch?v=wA1XZSjN3bc)

フクシマ原発についての情報開示

 福島の原発事故について一番問題なのは事故後の経過情報が部分的にしか公開されないことだ。そもそも極端に行政寄りで、まともな改正がされてこなかった一群の行政法のせいで行政がまともな情報開示をしなくてもよいことそのものに問題がある(と同時に改正はおろかそもそも行政法に関心をもたなかった我々に問題がある)が、現在は、水素爆発と核爆発で吹き飛んだ原子炉についての情報の隠蔽と同時に情報隠しが発生させた人体への致命的な影響を問わなければならない段階に至っているのではないか。

 事故直後、民主党政権下で喧騒と混乱の中「直ちに人体への影響はない」というアナウンスがなされた。第一声が事実のアナウンスではなく口頭弁論での事実陳述のように責任回避の発言だったことに呆れた記憶があるが、その後自民党への政権交代で成立した安倍政権は資産バブルを政権の基礎として白玉を弾くように右派政策とリカバリーのアメの政策を混合で打ち出すだけで、福島原発とその周辺の状態に対する定期的なアナウンスは行わなかった。つまり、原発の問題をアイソレーションした。
 ブルジョワ的な株主総会の原理に照らしても4半期ごとに福島第一原発の現在の状況がアナウンスされてしかるべきだが、そんなことすらできない。日本の株主総会が情報開示にほど遠いことは百も承知しているが、政治権力は国民の代表なのだから国民の身体の安全を守るために善良な従者として情報開示する義務があると迫ることができるはずだ。それがないのは我々の市民意識が低いからなのだろう。(アメリカ的な市民社会の導入には共和政体の導入が不可欠なのではないか。)
 行政の秘密主義体質(カメラリズム)を是正しなかったツケが3年という時間を経て東京圏で生活する人間の身体にまで影響を及ぼしているように思えるのは気のせいか?私の周囲で人がケガをしやすくなりすぎているのと、生気が下降しているように感じられるのが気になる。「人体への影響はない」といわれた期間は現実的に過ぎ去ったのだ。

 少し前に『美味しんぽ』で主人公が鼻血を出す描写が問題となったが、排出された放射性物質の量はヒロシマ型原爆より多いというのだから、その程度の影響はあってあたりまえだ。鼻血の描写すらヒステリックに抑え込むのは現実に出ている症状がより深刻であるからだと思える。何よりも、福島周辺、あるいはその外部での国民の身体への放射性物質の影響について積極的に向き合うのではなく、隠そうとしている。その影響は、結局私自身と家族、友人に及んでいる。

ついでに書けば、『はだしのゲン』が図書館でバッシングに会う反面、『風の谷のナウシカ』は話題にもならないのは奇妙なことだ。今福島で起こっている事態が『ナウシカ』冒頭の描写であることは明らかである。

もう一つついでに述べると、福島を観光地にして人々の原発事故への意識を喚起しようという話は、それなりにマイナーなイベント性があるのかもしれないが、そんなことをするくらいならば震災瓦礫を遊園地の敷地に埋めたほうがブラック・ユーモアとしてインパクトがあるのではないか。勿論彼はそんなことはできないし、そもそも問題のレベルが違うと反論するだろう。しかし、観光させるということは惨状を見せ物にしてショックを体験させることだろう。ならばいま人の集まる場所に危険を持ち込んだほうが手易い。この程度の比較に耐えないならば思いつきの企画にすぎないということだ。震災瓦礫の対応にせよ、中年の「文化人」や「政治家」からは吟味によって鍛えられた知性が感じられない。ドゥルーズカフカ論だったと思うが、メジャー言語の中で「どもる」ことこそが概念創造の源泉ではなかったか。


 最初から原発事故の影響が甚大なのはわかっていた。過剰反応すべきではないというが、現実は情報を隠しすぎている。情報開示により信頼を得るよりもマーケットの評価をとった結果だが、矮小な判断というほかない。マーケットに対する見栄えをとったがゆえに、今後、当のマーケットから嘲笑とアカンベエを受けるだろう。アベノミクスのドーピングが切れたときに、我々は「現実」に直面する。我々は選挙とデモでこの国を変えられるだろうか。代替的ビジョンの提出ができるだろうか?

雑記

 すが秀実歴史修正主義はマイノリティ・ムーブメントに対する正統な意味での保守反動であり、マイノリティ解放の目標を掲げる限りこれを避けることはできないという。マイノリティ解放の反作用として生じるこれらの歴史修正主義への不断の対決と批判なしには自由と真実の獲得はない。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm5556773

 話は変わるが、大西巨人氏の面白いところは一貫した反天皇制共産主義者であるばかりでなく、以下の赤人氏の語るエピソードのように過剰なリゴリズムが滑稽へ転化する両義性をもっているところだ。

 『例えば、私の子供時代に食後すぐにコーラを飲まないと約束させられ、何ヶ月かたって私がそれを破ると、『お前は何月何日に約束したじゃないか』と、強権ではなく理屈でやられる。迷惑極まりなかった」と笑う。』

 赤人氏の苦労を思うと同情を禁じ得ないが、しかし、これほど痛快な滑稽話はない。幼い息子に躾けをするのにリゴリスティックな論理を使うのは父権を振るうのと変わらない。その「平和主義」的な権力のありように爆笑してしまう。赤人氏は硬骨の古武士のような巨人氏と違い、戦後民主主義の大衆文化を享受する方だったはず(インタヴューで映った部屋に『ドラゴンクエスト5』(ビアンカ問題!)のソフトがあった)。巨人氏の強い倫理観と行動力の高さは頼れる父であると同時にヘタウマギャグ漫画のブラックユーモアのように感じたことだろう。

http://sayusha.com/news

フィクションの真実はどこにある?

 すが秀実氏の評論のタイトルである。
 1968年に起こった学生反乱である全共闘運動をめぐる歴史修正主義に対する批判。東浩紀氏、あるいは名前は出ていないが大塚英志氏の論文への言及から始まるが、これは露払いで、本丸は小熊英二氏の『1968』への批判である。

 まず前提となる東、大塚氏のキャラクター小説論によると、産業資本主義による経済発展が終わり、個人=国民に内面規律を求める近代社会が終わると、達成すべき目的=新しい価値の実現を失うことで社会はヒエラルキーを成立させる価値序列を失い全ての価値が同一平面上で等価に置かれる「ポストモダン」社会になる。かかる「ポストモダン」社会においては新しい価値を告げる「炭鉱のカナリア」として機能してきた近代小説は価値を失い、(ここからはイデオロギーだが)アナクロニスティックな超人性を備え、等身大の人間の実人生から遊離した擬人的存在(キャラクター)が人気を博す(例えば、吸血鬼、幽霊、九尾の狐、etc)。かかるパワフル且つ荒唐無稽な非政治的世界では、登場人物の名前は擬人化されたパワーに便宜上つけられたものにすぎないので、なんでもいい。例えば、海賊の名前はジャック・スパローでもモンキー・D・ルフィでもあるいは、0でも1でも甲でも乙でもいい。
 こうした娯楽作品はゲームを通じて生の一回性を知るためというよりも、端的に政治権力にとって無害なために大規模資本の流通に乗って莫大な利益を挙げる。 

 以上がキャラクター小説論と、これに対する私個人による批判である。

 これだけだと娯楽産業の理論的な擁護にしかならないので政治的な議論にはならないが、すがはかかる娯楽(出版、映画)産業の投下資本回収イデオロギーを小熊英二の『1968』に見いだす。
 まず、この本の記述には単純に実証的な間違いが多数存在し、研究論文として致命的に問題がある。そのため、これは科学的な研究でも歴史的な記述でもなく「小説」だという判断をする。しかし、そうだとしてもあまりにも多い実証的な間違いはケアレスミスではなくそもそもパースペクティブに問題があるからだと指摘する。
 そのミスリーディングとは、1968年の学生運動は少なくと日本においては経済成長の終焉によって目的を失った子供が自分探しの最中に起こしたヒステリーであり、なんの政治的目的もなかったというものである。

 かかる小熊の主張に対してすがは当然のこととして68年が構造主義とマイノリティ・ムーブメントを生んだことを指摘する。そして、ここからが本題だが、歴史叙述について小熊のような単純な錯誤が生じるのは、現代社会における歴史叙述が「ポストモダン」的な「キャラクター小説」と化しているからであり、キャラクター小説=ライトノベル作家となった歴史家からすると廣松渉も岩田弘も理論家ではなく、スパローやルフィのような軽薄な熱狂の対象にすぎないのだろう、と結論づける。

 ここまでくるとすがの主張がイロニー(嫌味)であることがわかるだろう。要するに、すがは、研究者・歴史家として学生運動の歴史を書くならモニュメントとして、運動と活動家を祝福するものとしてきちんと書け、活動家に対して敬意を払え、しかし、そんな意思は最初からないのだろう?そんな人間に68年について書く資格はない、といっているのだ。
 当然の主張である。

 すがの主張は娯楽産業によって政治的主張を割り引くことが多様化ではなく最悪の大衆化に陥ることへの批判といってよい。政治がアジェンダを失い、文化がステータスを失うことで利益を得るのは大衆文化である。全てが同一平面にあるというと、社会がフェアになったと錯覚するが、そうではない。個でタテの緊張感を持てないアトム化した人間が際限なく同化を行うため、通俗さの専制による煉獄が出現するのだ。その意味では、この論文のテーマは「政治の娯楽化のもつ反革命性」である。

レズビアン&ゲイ映画祭後半

 先週見た『HAWAII』が良かったので19日(土)に『アゲインスト8』と『アニーと秘密の部屋』を見る。

 映画祭に絡んでLGBT文化人の公開座談会がYoutubeにアップロードされているが、これが面白い。特に田亀氏が3本のゲイ映画を明確なパースペクティブの下にまとめてくれるので、それぞれの映画がどういう位置づけの中にあるかがわかって作品への理解が深まる。さらに、動画の中では三島由紀夫への言及があるが、彼/女らの動画を見ているうちに過去に読んだ三島の対談、エッセイがドラァグ・クイーンの放談にしか見えなくなってきた(笑。『仮面の告白』と『禁色』の作家でおばあちゃん子だったというのだから、そりゃあゲイだろうと思う。小説がいま一つ爆発力に欠ける(といってもあの見事なクオリティだが)とされる反面、絢爛豪華な舞台芸術こそが三島の本領だとされるのも様々に衣装を変えるゲイのヴォードヴィル・ショウを連想すると納得がいく。

映画は、前者はいかにもアメリカの佳作ドキュメンタリー映画という感じだが、反同性婚法案を憲法訴訟で違憲無効にするのだから、「中世」といわれる日本の司法制度からするとお伽の国の話に見える。ロールズ的な正義の二原理は68年への反革命だというすが秀実氏の批判もあるし、同性カップルに婚姻を認めることが進歩といえるのかという疑念もあるのだろうが(同棲と婚姻の境界を取り払うべきという主張)、マイノリティの権利を州レベルで認めてそれを憲法で援護射撃することでアメリカの国家としての寛容さを見せる点は、やはり日本とは政治と社会の成熟度が違う。日本ではLGBT問題に限らず、マイノリティをめぐる政治問題は意識化することすらタブーであるという恐ろしく野蛮な状態がいまだに続いているのではないか?上乗せ条例によって同性婚を認めた都道府県などどこにもないし、法科大学院民法の授業では同性婚は話題にならないだけでなく、教員も学生も自分たちに関係のないトピックだと考えている(水田耕作を中心とした食料生産と家族形成のイデオロギー。そんなに古いのか?と思うかもしれないが、堂々たる古さである)。婚姻制度の当否を議論するのは勿論意義あることだが、現実に日本においてはマイノリティのパブリック・エンパワーメントが絶望的に弱く、その機会も「機会は形式的に平等にするが試験内容は徹底的に不平等なままにする」という「separate but equal」の論理でしか提供されないという事実も同時に見るべきだろう。

後者は前2作に較べると普通の作品で、倦怠期を迎えたレズビアン・カップルが不倫を経てお互いの絆を確認しあう話。LGBTのカップルもカップルとして抱える困難はヘテロとパラレルであり、普通の市民であるということ。

今回はとにかく映画祭の存在を知ることができたことが収穫だった。予備知識が何もなかったがゆえに、LGBT映画に先入観なく出会うことができ、クオリティの高さを堪能することができた。田亀氏の解説を見ると目玉のゲイ映画3本は全て見たほうがよさそうだ、というか、それ以外の映画も全部クオリティが高そうで食指が伸びるのだが、今回は予定が合わないので仕方がない。まだ見ぬ傑作に出会うのは次の機会に譲ろう。

(追記)
 座談会のリンク。

http://www.youtube.com/watch?v=AEIA-j0LbKk


 思考実験としてセクシャル/ジェンダー・マイノリティの問題と憲法(人民憲章)を通じた人権の実現の問題を考えてみる。すが氏がいうように憲法による人権の実現が無理だとすると、憲法(24条)、民法(第四編、第二章)の改正による同性婚の法制化の目はないことになり、同性カップルはいつまでも同棲状態に止まることになる。それは彼/女たちが常に誇り高い自由人であり、法律、税制、社会慣習との衝突における煩雑な対応について、これら一つ一つ正確に対応できる強さを求められることを意味する。それはハイ・インテンシティな人生の強制である。これはやはり無理がある。インテンシティを持って生きられるのはいわばナチュラルな貴族であり、貴族を基準にスタンダードを決めればその他大勢はオーダーから脱落するほかない。同性婚の可能性を否定して同棲の全面化だけ目標とすると、生活は息苦しくなる。同性婚の推進に対してむしろ婚姻と同棲(内縁)の境界を取り払うべきだという主張は理論的には正しいが、マイノリティに付随するハンディキャップを無視している。婚姻と同棲を自由に選べる境遇にあって自発的に同棲を選び、それが社会全体の流れになることを目指すというのは異性愛者のプログラムである。マイノリティに最初から婚姻の自由はなく、「正義」は「一夫一婦制の保護」の名目の元、同棲以外の選択肢を認めていないのだ。勿論、かかる「正義」のプログラムに基づいて「一夫一婦制」には様々な保護がツリー状に存在する。この統治システムの不平等を見ないで原理原則論を掲げると結果的にマイノリティを追い詰めることになる。ましてや、法改正による同性婚のフォーマル化を求めると伝統主義的な政治的支配階級の機嫌を損ねるから、セクシャル・マイノリティ・カップルのフォーマルな評価は内縁=同棲に止まったほうがいい、などと「諫める」ことは保守反動の人権侵害以外の何者でもないだろう。
 マイノリティに必要なのはネオリベ的な消極的自由ではなく、諸々のマイノリティの特性に応じたサポートとしての社会政策であろう。その意味で同性婚の導入はセクシャル・マイノリティの自由を充たす一歩となるはずである。方法は?民法改正を求める憲法訴訟、が正攻法になるだろうか?しかし、これだと大きな訴訟になるので自治体に上乗せ条例の制定を求める陳情(という言葉は嫌いなのだが)をすることになるのか?人権問題を身近なレベルで実現していくルートが日本では本当にわかりにくい。伊藤真が英雄であるような前時代的な状況は変えなければならない。

雑記

 安倍首相が新規採用する国家公務員の3割を女性にするといっているようだ。理念を語ることなく自己の政治的立場とは異なる政策をとるのは奇妙なことだ。冷戦崩壊以降、リベラル側が保守的な政策をとらざるをえない反面、保守側も再分配的な政策をとらないと政権維持できなくなったため、左右どちらが政権をとっても殆ど政策に違いがなくなったというが、これはそうした政治状況とは異なるように思う。なぜなら安倍政権は保守政権ではなく極右政権だからだ。右派の政治的方針に基づきながら、不定期に極端に方針の異なる政策をアナウンスするのは、彼らが単なる右派ではなくボナパルティズム=全方位的支持を求めているからである。これは大阪の橋下市長も同じである。強権政治を基礎としながら、その時々で人気の取れそうな政策をゲリラ的に挟むことによってイデオロギーによる政治ではなく、「不偏不党のピュアな政治」を全国民にアピールする。勿論これほどバカげたものはない。政治はイデオロギーの闘争以外ではない。イデオロギーなき政治は最悪のポピュリズムであり、現に今目の前にそれがあるのだ。例えば、分裂した維新の会について、あからさまな極右発言をする石原氏に対して橋下氏は「柔軟」であり、より望ましい政治家であるかのような言説をたまに見るが、悪質なプロパガンダである。前者が端的な極右だとすれば、後者はボナパルティズムを指向しているにすぎない。
 話を元に戻すと、利益・損失の当事者にしてみれば右か左かに関係なく作られた橋は使えばいいと思うかもしれないが、政治思想の裏打ちのない政策は基礎が脆弱なために破綻しやすく、また、権利は割り引かれたものとしてしか実現されない。要するにこれは悪い政策なのだ。
 ボナパルティズムの分析としてはマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』がある。第二帝政は失業の解消と経済発展を両立させるという歪な政策によって圧倒的な大衆の支持を得たが、普仏戦争によってあっけなく消えた。ポナパルトにせよヒトラーにせよ、実務家政権はある日突然消滅する。21世紀初頭のポピュリズムも同じように唐突な終焉を迎えるのだろうか?

 ポピュリズムを生み出すのは経済政策の行き詰まりだと説明されるが、現今のポピュリズムを主導をしている政治思想の拒絶。実利的な結果さえ出せば思想による自己規律は必要ないというミクロな消極的自由主義であろう。反知性主義的実利主義こそが「経済政策の行き詰まり」の反哲学的反映といえるかもしれない。彼らは自らを政治イデオロギーを打破する自由の使者だと考えているように見える。ポピュリストは「右でも左でもない」という言い方をするが、自己の限界づけを拒み全能感を享受し続けようとする幼児的ヒステリーこそがポピュリズムの精神的基礎ではないか。そして、それは意図的に劣化させられたアメリカン・デモクラシーのように思える。

レズビアン&ゲイ映画祭

マルコ・ベルヘール『hawaii』

 東京、渋谷で行われている東京国際レズビアン&ゲイ映画祭へ行ってきた。私は性的にはヘテロセクシャルであるし、予備知識ゼロでとにかく映画を楽しむためにでかけた。表題はこの映画祭のオープニングを飾る作品で、監督のマルコ・ベルヘールはアルゼンチン人。

 作品は2013年にリリースされた最新作でゲイの恋愛物語なのだが、クオリティの高さに衝撃を受けた。過剰な演出はなく、エリック・ロメールのように上品で、ゴダールのように美しい。あまりにも気持ちがいいので時間を忘れて見入ってしまった。
 同時に、普段、投下資本回収のために作られた駄作ばかり見せられていることを思い知らされて暗澹たる気分になった。
 私の日記にブロードキャストの能力はないが、一人でも多くの人にこの作品を見てほしいので取り急ぎ記述する。

 次の上映は7月19日(土)11時30分から、東京の青山スパイラルホールにて。