無用な選挙...

2カ月に一度の日記。
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https://www.youtube.com/watch?v=OmjJWUM8VcA
http://d.hatena.ne.jp/nomad68k/20121201/1354354322

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よしひろまさみちさんのコラムが終了していた。もともとよしひろさんのコラムが無償で読めることが幸運だったのだからやむをえない。しかし、それをいったらにちょぽのコラムは全員いつ終了しても仕方がない。現在のクオリティは「誕生期の楽天性」であって、祝祭なのだ。
 マーガレットさんはLGBTアメリカ型ソフィスティケーションに抗うように常にえげつない題材を選ぶ。圧倒的な文芸的教養をもっているのだが、それをプレインな状態で出すことはない。かつて福田和也氏が文壇で文士の居心地を悪くさせることをアイデンティティとしていたが、同じメンタリティを感じる。
 それにしても、ゲイのAVもえげつなさはヘテロのそれとかわらないので苦笑する。おまえらにいわれたくないって?そりゃそうだ。
http://www.2chopo.com/article/975/

 LGBT映画祭の座談会のyoutubeを久しぶりに見てみたら愕然とするほど再生数が少ない。登壇者の知性においても、内容においてもこれほどハイクオリティな座談会は希有なのに、なぜだ?日本人よ、そんなに同性愛に関心がないのか?それほど同性愛を「存在は認めるけど自分には関係のないこと」と思っているのか?あるいは「お互いが傷つけ合わない距離を保って無関心を貫けばそれでいい」と考えているのか?居場所は侵害しないが、アイデンティティを認めるつもりはない、というのは、他者=同性愛者の自由の否認、即ち、パッシブな(不作為による)攻撃である。マジョリティのマイノリティに対する暴力は、常に、虚栄と悦楽の追求を少数派のために邪魔されたくない、という形をとる。10の利益が9.9になること、たったそれだけの犠牲に彼らは耐えられない。
 これとは別に日本人のマイノリティやハンディキャップに対する関心の低さは政治制度に原因があると思える。

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「あのねぇ、いいたいことを言えない苦しみっていうのを味わったほうがいい。」
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20051217

「選挙なんていったって何も変わらないってことがわかってない。
そういうことだと思うんだよね。
そんなことより、自分でなんか始めたほうがいい、というか、それしかないということがわからないうちは、それはもう希望はない。
で、それがわかるまでにはねぇ、まだまだ裏切られなければならない。そういうことでしょう。
だからねぇ、一番暗いときに希望がまだ微かにあるみたいな。そういう体験をした時代とか場所というのがあるわけですよね。
https://www.youtube.com/watch?v=vLDMc6DFf5Q

Sakurai・Hashimotoといっても行政法の教科書ではない。
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524577760044277760
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524583435453485056
https://twitter.com/toyamakoichi/status/525107266194657280
https://twitter.com/NakagawaFumito/status/524475114650230784
https://twitter.com/NakagawaFumito/status/525120620757909505
https://twitter.com/NakagawaFumito/status/525121290839945218

外山恒一氏のイデオロギーは(イタリアン)ファシズムで、私とは相いれないが、射程の深い知性からなされる判断には聞くべきところが多い。例えば、チャーチル的な意味(民主主義は最悪の政治体制だが、残念ながら、他に代替的な政体はないからこれに従う他ない)のシニシズムに基づく選択はダメで、アナーキストはニヒリストでなければならないという主張には芯の強さを感じる。
http://www.youtube.com/watch?v=qEUgOX5kWf8
外山氏に一番近い言説を展開しているのは中田考氏か。
http://www.youtube.com/watch?v=iRCRqMclXq8


庭にくるメジロのさえずりは可愛らしいのに、なぜ政治家の「さえずり」は醜いのか?
端的に人間が醜い動物だから?

選挙というが、与党にはそもそも政策がなく、野党にもレイムダック化した政権を引きずり降ろす戦略がない。あまつさえ、近代右翼が野合をして既存の保守勢力(といっても極右にハッキング(クラッキング?)されているが)に対抗しようというのだから、政治状況は全体主義そのものだ。

振り返ってみて、この2年間で安倍政権は政治活動を何もやっていない。すが秀実氏が第二次安倍内閣成立時に政権がもつか否かは「株価次第だ」という渡辺喜美氏の言葉を引用して絶賛していたが、本当に株価とそれを支える円安政策以外何もやってない(実際にその通りだとしても、政権の命綱が「株価」であり、それを見抜いたと喜ぶのは一種の左翼小児病ではないか?)。政権の主役は安倍首相ではなく日銀総裁の黒田氏と「アベノミクス」オーガナイザーの浜田宏一氏である。政治的判断があるかのようにふるまいつつ、現実には断固としてそれを沈黙させることで古い判断を前に送ることが目的だったのだろう。この状況をボードリヤールを使って語る批評家がいないのは奇妙なことだ。これこそシミュラクル=政治の不在としての政治である。
 https://twitter.com/Oni_Curry/status/532487714935808001

 久しぶりに宮崎哲弥をテレビで見たが、単なる金融資本主義のイデオローグになっていて呆れた。
 最初からこういう人物だったか?言語に批評性がまったくない。大衆、国家、資本に飲み込まれた言葉は批評ではなく単なる生理的快楽である。大衆文化(テレビドラマ、ポップミュージック、芸能史)と国家=共同体主義だけを語っていた頃は多少は抑制があった。資本が入ったからか恐ろしく幼稚になっている。彼は第一次政権の頃からのプロ安倍政権だが、大衆−国家−金融=極右ということで政権と意気投合するのだろうか。だとしたら惨めというほかない。資本は人間を幼稚にする。これは常に自分のこととして考えなければならない。

 もうジャーナリズムを追うことはできなくなった。
 たくさんのことが一度に起こっている。「一番後ろにいる奴がトップに立つ」時代になったのか?
 いま自分の選んだ世界は牽引力をもった機関車ではなく、それに連結される客車である。
 私は乗客らしく列車の走行に身を委ねよう。
https://www.youtube.com/watch?v=ikD2APRw9YY
https://www.youtube.com/watch?v=AduVwOPhW50


(※ 立ち読みした『エンタクシー』のすが秀実氏の時評によると、在特会ヘイトスピーチはオーソドックスな反ユダヤ主義と同形のものらしい。だとしたら、彼ら自身と彼らをあなどっているメディアの評価に反して、在特会の極右活動ははるかに深刻なものである。すがは在特会はオリンピックまでの時限つきのものだと紹介しているが、日本で全体主義が成立する場合、ナチスのようなカルト政党が国家を覆い尽くすものよりも、群小右翼が大同団結して「大政翼賛会」を形成するほうが抵抗が小さい。在特会がその露払いになる可能性がある。90年代以降、政治情況が過去のどの時期に似ているのかということは常に議論されるが、欧米型排外主義が日本的ファシズムと結合して災厄をもたらす可能性が現実味を帯びているのではないか。
 日本においては、強烈な(同時にインチキな)カリスマ性をもったナチス型ではなく、西田幾多郎の唱えた無の場所のような主体性を喪失させる哲学のほうがファシズムイデオローグになる。丸山真男東京裁判ニュルンベルグ裁判を比較し、天皇制右翼はナチ幹部に較べて悪党として肝が小さく、惨めだと書いているがこれは現在でも変わらない。日本のファシズムは矮小な小悪党が大同団結して、彼らが無責任に無軌道な活動を行うことのできるプレイグラウンドを作ることで成立する。繰り返すが、日本のファシズムは西洋型のように強力な主体性によるのではなく、「リフレクションの要請」によって生まれる「エンプティ・スペースの絶対化」に基づく。従って、強力な指導者も、明確な綱領も、決定的な事件も必要ない。国家にかかる圧力が一定の閾値に達すると自然に形成される。日本型ファシズムの蛮行は明確な差別意識や一枚岩の組織の指令によるのではなく、「エンプティ・スペース」を守るための斥力や浸透圧の論理によってなされるのだ。同時にこれが哲学であることも強調しておく必要がある。シングルな指導者、明確な綱領と目的、モニュメンタルな事件が「ない」ということだけは徹底的に意志されるのだ。「無の場所」を最高価値とすることは明確な原理であり、その原理そのものへの言及がサイレンスされることまで含めて、日本型ファシズムも哲学に基づいた政治運動なのだ。
 つまり、どういことかというと、ドイツ型ナチズムだけをフレームアップし、これに抵抗するために無気力や主体性の相対化だけを掲げるとまさに日本の「無主体性ファシズム」にとりこまれるのだ。なによりも、「無」の強制という形で個人の主体性を否定し、国家権力への服従をゴリ押しする政治圧力は、現在でも警察の捜査、取り調べという形で残っている。ジャパニーズファシズムは現役の政治思想である。
 何度も言及されてきたとおり、市民の主体性を強制的に奪う「無責任の体系」は「なし崩し」で形成され、且つ動く。かかるリフレクション・ファシズムに対抗する方法が明確な主体性を持つことであることはいうまでもない。
 形成されつつあるかもしれないリフレクション・ファシズムに対して外山氏のパルチザンはどう対抗するのだろうか?)

(※2 選挙のためか憂国ほう談が早めに更新。速報性あるなぁ。健全な欧米型の国家と違って日本は政権交代の可能性が極端に低い「事実上の」一党独裁国家なので、選挙向けの特別キャンペーンをやっても効果があるか疑問だが、やらないよりはましだ。昔からしつこいほど、日本は個人のない集団主義だとか、若年世代はシニシズムだとかいわれていて、「オーソドックスな民主主義」がまったく根付かないが、とにかく石を積まなければ石垣はできないのだから、できることはやったほうがいい。
 話題は横須賀美術館から防衛大の学園祭へ続き、スタンダードな軍人の知性がないから、安倍首相のような安全保障の幼稚な暴走を許すという話から始まる。スタンダードがない、ないし弱いから幼稚なポスト・モダン・シニシズムの暴走を許すというのは何度もいわれていることで、またこの話かと思うが、実際にその通りの情況なのだから何度でも同じ話を繰り返すほかない。
 安倍首相から橋下市長まで、シニカルな子供が「財政再建」の建前の下に専横を極めてうんざりする。債務増大を解決するために政府はこれまでと違うことをやらなければならないし、そのためには官僚主導ではないオピニオンリーダーが必要である。しかし、それがことごとく歪なデマゴーグの支配に転化するのは、要は選挙民に選択能力がないからだ。実際には国も自治体も債務が増えているのだから、政治へのシニシズムはそのまま我々に跳ね返っている。日本の国力は国際的評価よりもはるかに低いと思ったほうがいい。政治が混乱するのはパワーのないエンジンに重い車体がのっているからだ。その意味では「自虐的」な円安誘導は正しいのかもしれない。
 あるいは、日中首脳会談での国力の弱さへの言及があるが、実際に三等国への転落の途上にあるのだからこれでいいのかもしれない。
 二番目の問題は大学を下層向けと上流向けの二つに分ける政府案への批判。すが秀実氏が賛同的に言及していたのに対して、こちらは批判的な言及。
 最後は田中氏の新刊の宣伝。33年前はITがなかったのでちょっとしたテクノロジーがまだまだ特権的だったと話している。完全におじいちゃんの昔話。しかし、正しい年のとりかたなのかもしれない。
 読み終わってみると政府に対しては現状においても将来の展望においても何一つ明るいものがない。昔からそうだったのだろう。ブラック・ユーモアを忘れないことが憂国ほう談の役目なのかもしれない。)

華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある。


二月に一度のダイアリー更新(一月しか経ってないけど(笑)。

「0」
 先日、横浜美術館で行われている横浜トリエンナーレ2014へ行ってきた。展覧会はアーティスティック・ディレクターに森村泰昌氏を迎え、同氏の全面的な監修の下に行われる。ホームページ(http://www.yokohamatriennale.jp/2014/director/index.html)の挨拶欄には以下のような言葉があり、森村氏の自信の高さが伺える。

「行き先は未知である。しかし横浜から舟は出港した。その船長が私だとしたら、正直なところ、舵取りはかなり危険である。」

 英雄的である。普段、引きこもって昼夜逆転と戦いつつ(しょうもない)法律の勉強しかしてない私には永遠に手に入らない美しさだ。彼のこの言葉に惹かれてみなとみらいの埋め立て地区まででかける。

 京浜急行日ノ出町駅で降りて、てくてくと30分ほど?歩いて勝手知ったる横浜美術館へ。クイーンズ・スクエアを抜けて横浜美術館へ着くと、建物正面にヴィム・デルボアの鉄でできた繊細なレース細工の疑似トレーラーが置いてある。ギムホンソックのゴミ袋のクマと並んで本展覧会の看板作品である。
 初めて見るのでひとしきりしげしげと眺める。最初は馬車籠かと思ったが、よく見るとトレーラーで、いうまでもなく実用はできない。フレームは装飾的で且つ錆びているし、タイヤまで鉄でできている。要するにこれは無駄にゴージャスで現代社会を支えるブルーカラーの道具を模した「使えないもの」なのだ。華麗な装飾への批判?あるいは、華麗な装飾が知性と結び着かず通俗的な肉体性としか結びつかないことへの批判か。そばに座るとヨーロッパの森の中に捨てられて朽ち果てた軍用トレーラーのようで弁当とお茶を楽しみたくなってくるが、そんなこともしてられないので入場券を買って本展へ赴く。
 チケット売り場の説明によると美術館だけでなく新港パークの展示場にも作品があって、一枚のチケットで二つの展示場へ行けるとのこと。新港パークは少し遠いので、午後の観覧の後にはしごするのは疲れる。そのことを考慮してか、スタンプを押してなければ新港パークの展示は後日でも見られるとのこと。長く使えるためか、チケットは凝っていて、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」という言葉の版木の写真が印刷された二つ折りのものになっている。この版木はおそらく森村氏自身の手によるものだろう。版木なので、勿論、字の左右が反転している。これがまさに本展覧会のテーマになる。

 館内では例のごとく音声解説(森村氏自身が担当)が販売されている。森村氏の解説ならば通り一遍の解説と違いきっと面白いだろうが、タブラ・ラサで現代美術に触れるのも面白い。ここは批評家の浅田彰氏の提案にのって解説なしでいってみることにする。
 そのまま入り口正面から右側のエスカレーターを登って3階の展覧会のスタート地点へ行く。休日のためか観覧者は多い。ガラガラの美術館を知っている身としてはちょっと驚きである。かといって、すし詰めで絵を見るのも一苦労というわけでもなく、雰囲気的にはいいシチュエーションだ。掲示があり、芸術家たちの小さな、静かな声に耳を傾けてくれとのこと。ふむふむ、なるほど。

 展覧会の口火を切るのはマレーヴィチとケージの作品。ここで早くも音声解説を買わなかったことを後悔する。ケージは知っているが、マレーヴィチは名前しか知らないのだ。方眼紙に鉛筆で円と正方形を書いた作品を見て困り果てる。ミニマルアートであり、これでいいということなのだろう。芸術にとって最も原始的で単純で美しい形ということだろうか?しかし、確信が持てないのでうんうんと悩む。大体、これなら中学の幾何の時間にあまりに退屈なので同じような落書きをした覚えがある(もう遠い昔のことだ)。しかし、考えてみれば不思議とあのときマス目をなぞって幾何形態を塗りつぶすのは楽しかった。
 困っていてもしょうがないので次々と作品を鑑賞する。マレーヴィチの次には有名な4分33秒の楽譜のファクシミリ?がある。貴重なものだ。初めて見るが全3楽章の指示にそれぞれきちんとTACET(だったと思うが)と書いてある。無音はなにもしないことではなく、調性と指揮があった上で無音を意図することなのだ。
 なんてことを考えながら鑑賞を続けるが、無題とされたホワイト・キャンバスや透明のアクリル板に見えないインクで署名された作品など初っぱなからハイコンテクストな作品が続き、突き放された感覚を覚える(※1)。浅田氏は解説なしでいけというが、森村氏が丁寧な解説を付するのも無理はない。とにかく前へ。マグリットの写真やそれへのコミカルな言及(猫にマグリット作品について訪ねてそれを録音するという作品。勿論、猫=私、解説者=森村氏、である。(そんなに意地悪じゃないかな?(笑)が続く。
 閉鎖的な印象のある最初のスペースを抜けてプラスティックな釜ヶ崎芸術大学の展示とフェリックス・ゴンザレス・トレス、ヴィヤ・セルミンス、ギムホンソックの風船作品のスペースに出るあたりでやっと一息つける。息を止めるように作品を見ていたことに気づいて、力を抜き、少し深呼吸。
 しかし、ここまで個々の作品については「ふむふむ」「これはなんだろう」「おぉ、ゴンザレス・トレス」等と思って見ていたが、全体の展示意図はさっぱりわからない。スタートから続くブランク、ミニマル・アートの連続は、俗塵を洗い流すシャワーのようなものか?とにかく筋肉をほぐして感覚を柔らかくしろというメッセージだけを受け取る。

 これが第3話以降の爆発的な展開につながる(ちなみに全11話構成で、普通に回るとそのうち7話までを横浜美術館で鑑賞できる。ライブイベントもある多角的な展開なので熱心なファンでないとコンプリートは無理。逆にいえば、見ることのできる範囲で見ればよいということ)。

 色彩的な釜ヶ崎芸術大学のスペースを抜けて第3話のスペースにつくとコンセプチュアルアートのスペースになっている。ここでは伝達、表現の不能、マイナーな事件の中心人物とその家族といったアクチュアルな展示がなされる。タイトルも「華氏451はいかに芸術に現れたか」。ここでスタートで通りすぎたホワイトやブランクの作品がドラマティックに存在しはじめる。ブランク、透明な言葉、ばかばかしいが確かに存在する境界線。トリビアルな存在こそがむしろ事件の中心であることが雄弁に(静かに、且つ、過激に)語られる。
 鮮やかである。第1話から第3話までのこの流れで展覧会の成功は決定づけられたといってよい。打ちのめされた。なんというパワーだろう。「私が船長だとしたら舵取りは危険である」というが、確かにこの切れ味は暴力的だ。権力の襞となる通俗的な論理性の暴力とこれに対抗する沈黙の力を強烈な形で示す。これは権力と芸術家の終わることのない対位法の劇なのだ。リベスキンドのベルリンのユダヤ人にはエクスプリシットに見せられるものはもはやなく、ヴォイドしかないという理論を思い出す。各セクションや作品の間に強烈なヴォイドやキアズマがエネルギーとなって現れるのだ。
 現代美術というのはこういうものなのだろうか?E=mc2とは質量とエネルギーの釣り合いを示した式だというが、ブランクやヴォイド、反復や不能化させられた機能等は相互に参照しあい、作品としての質量を破壊されること(あるいはネガ・ポジが反転すること(重要!))で爆発的なエネルギーを獲得する。入り口では途方に暮れていたが、むしろコンテクスト(文脈)がわからずに途方に暮れる経験が必要だった。「訳がわからなかった」からこそドラマティックに権力の暴力が現前する。

 個人的に展覧会全体の起爆装置となったのが文学報国会へ参加した著名作家たちの戦争翼賛詩と画家松本俊介の敗戦当日の日記と手紙である。特に前者は漠然と想像していたものよりもはるかに酷く、ショックを受ける。文学から「俗情との結託」を退けることは単なる必要なのだ。

 ここから先は森村氏の啓蒙によって見開かれた目で様々な作品を自由に鑑賞することになる。パワーファイター揃いでどれも一筋縄ではないので、感想は書かないが受け取ったパワーは尋常ではなかった(というか力尽きた)。

 展覧会は第6話を見てエスカレーターを降りると正面にアートを捨てるごみ箱があって、そこで終わる(7話はカフェテラスに展示)。うーん、完璧だ。強烈なテーマパークでだまされたような幻惑感がある。

 ひとしきり打ちのめされた後に、「忘れたいことと忘れたくないこと」を書くイベントに参加して美術館を後にする。

(※1 よく考えたら、透明アクリルに透明インクで書かれた署名とは我々帰国者のアイデンティティのことだ。私は他者の視点から見た自分自身の姿に困り果てていたことになる。これほどまでに分かりにくいのか?、と苦笑する。簡単な解決はないのだ。)
(※2 横浜トリエンナーレだけで終わるのは惜しいので、この展覧会、他所へ巡回できないだろうか?かなりのインパクトだ。)


「1」
 いろいろと考えさせられたので知的好奇心冷めやらず、横浜の有隣堂で本を物色。『at』『インパクション』『天の血脈』を買う。テーマは天皇制批判。安彦良和氏はマンガ家、アニメーターであるため文尊漫卑の観点から批評的に評価されない向きがあるのかもしれないが、彼のマンガは大江健三郎の作品を除けば文芸誌に載る大方の作品よりも政治的に切り込んでいる。それは作品が左翼運動のオーソドックスな歴史と理論を踏まえているからだ。ポスト全共闘世代の作家たちの最大の弱点は天皇制=戦後資本主義を批判できない点だが、この点において安彦氏にためらいはない。柄谷−すがパラダイム文学史に意図せずに(?)現在最も忠実な作家のひとりなのではないか。巻末で松本健一氏と対談しているくらいだからすが氏や柄谷氏の議論は知らないと思うが、シンクロニシティは高い。文芸誌でなされる柄谷氏やすが氏の理論や対談の成果が反映されるのは純文学作家の作品ではなく、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザイナー、アニメーターである安彦良和氏のマンガである。大西巨人氏ともシンクロ率は高い。
 このオーソドキシーがデモのような市民運動と噛み合ったとき、不可能なる革命が目の前に現れるのだろうか?
 それともそれは多幸症的な夢想にすぎないのか?それにしては政治が露骨に悪い方向に進んでいる。現在の政府は老獪な保守政治ではなくパワープレイを信条とする右派政権なのだ。それは維新の党、みんなの党のような政府外の右派ともつながっている。

 小林節氏の議論はやはり自民党中心の保守政治の中で安保条約を切り盛りしていくための理論で、それほど射程が深いわけではない。彼は明治憲法日本国憲法明治天皇マッカーサーといったアニミズム的な崇拝対象となった人間が作ったことになっているので、「不磨の大典」=宗教的畏怖の対象となってしまい、それが市民革命の産物であることが理解されていないという。しかし、憲法が市民革命の産物だという歴史的経緯を強調するなら改正で最初に手をつけるべきは天皇制の廃止だろう。9条の相対化=なし崩し的な空文化を掲げるのは彼の本当の狙いが王党派的な元老政治の復活にあり、アニミズム批判は本質でないからだ。
 ここは『帝国の構造』の柄谷理論と重なるところだが、日本の王朝政治は天命や易姓革命のような哲学的な政治理論を持たなかった(単に隋・唐帝国成立のインパクトに対するリフレクションとして成立した)ため、生きた人間である天皇が物神崇拝=アニミズムの対象として最終的な政治的権威となった。そのため、本来ならば王朝交代や政治体制の転換となるべき政権交代が公には全く行われず、全ての政権交代が「物神」たる天皇の下での「実体権力者」の交代という形を少なくとも形式的にはとってきた。不幸なことにそれが19世紀以降、21世紀初頭である現在にまで続いており、半ば「土民」である日本人は「物神」である天皇のことばをシャーマンの「お告げ」のように絶対視しており、憲法もそうした天皇のお告げの一つだと思われている、というのだ。戯画化しすぎたかもしれないが、小林理論がそういうものであるならば、やはり改正の第一歩は天皇制の廃止と大統領制の導入により政治理念を正統的な民主政治にすること以外にないはずだ。それでヒンデンブルクのようなコチコチの保守派の元老が大統領に就けば彼にとっては願ったり叶ったりだろう。それをやらずにアニミズム天皇制を維持したまま9条だけを19世紀型国家主権に戻そうというのは、彼の改憲論の眼目が「近代化」ではなく「支配の強化」にあるからだ。
 大体、明治憲法日本国憲法を畏怖という点でパラレルに捉えているが、「世界戦争」の敗北の結果生まれた日本国憲法、特に9条にフロイト的な「超自我」の作用があるのはむしろ当然である。それを否認していることに気づかない小林氏の認識のほうが精神分析的に問題である。敗北によりもたらされた恐怖が憲法制定権力の根底にあるのは恥辱だというならば、9条は恐怖ではなくカント的な哲学的認識により生まれたものだといえばよい。そのような主張ができないのは、一つにカント哲学で政治体を作るようなリスキーなことはできないと嘲笑している(青臭いと思っている)ことがあるのと同時に、実際には敗北によって野心を断念させられ、戦勝国に従属しなければならないことが受け入れ難いということが理由である。要するに、未だに「戦争」という賭けに負けた現実を受け入れられないだけなのだ。「夢」の反対は「現実」だとフロイトはいったが、象徴天皇制下の保守派の「夢」は天皇制を維持したまま敗北などなかったかのように国際社会に政治的、軍事的に復活することだろう。それが不可能なことはいうまでもない(しかし、彼らは「できる」と信じて疑わない)。日本には学者から知識人まで、9条を拙速な手続きで削除、換骨奪胎しようとする論客が多いが、これらは敗戦トラウマ、戦争神経症以外の何者でもなく、刺激に対する反射以外ではない。このことをよくよく頭にたたき込んでおかなければならない。批評的創造性を持つ法理論は希有なのだ。つまりは、小林氏の法理論そのものが太平洋戦争が日本の官僚支配階級に反復強迫的な恐怖を与えたことの一つの証明だと考えられる。

(※付け加えるならば、アニミズム的な崇拝対象になっているのは天皇だけでない。法曹界も同じである。伊藤真から橋下徹まで、弁護士の肩書なしに彼らの主張を受け取れば滑稽以外の何者でもない。彼らは自分の肩書にアニミスティックな崇拝があることを知っており、そのことに酔っている。それはわざわざバッヂをつけて座談会に臨む小林節氏も同断である。世俗的な民主化を求めるならば、まずは足元の法律家業界の脱構築から始めるべきだろう。日本で法律家業界ほど神話的な麻酔作用が強く世俗化を拒んでいる業界はないのだから。法律家は神でも英雄でもなく単なる人間にすぎない。セックスによって生まれ、必ず死ぬ。無意味な司法試験による法律家の神格化の偶像破壊を行い、それを支える普遍性を拒む法体系の改正をこそ目指すべきである。無意味な裸の王様たる法曹を単なる近代的な法律家にする必要がある。)

「2」
 そういえば、浅田氏とすが氏の評論を本格的に読んだのは筒井康隆の断筆宣言批判が最初だった(『文学部只野教授』)。批評の始まりが強者による弱者の自由への威嚇への批判だったことを思い出してダイアリーの〆とする。

※ 浅田氏のトリエンナーレ評
http://realkyoto.jp/blog/yokohamatriennale2014/


「3」
 事態の進行は思ったよりもずっと早いようだ。以前下記のようなことを日記に書いたが、上坂すみれさんのアルバムでは既にゲームミュージックの作曲家をコンポーザーとして起用している。
http://d.hatena.ne.jp/nomad68k/20130621/1371813655
http://www.youtube.com/watch?v=Qql3c6OgGrM

 ゲームミュージックは音楽でないといわれる時期はさすがに過ぎ去ったのか?ちょっとした祝祭感があると同時に我が目を疑う。佐野さんが畑亜紀さんと組み、岡部さんが森雪之丞氏と組んでいる。コンシューマーからも伊藤賢治氏に光田康典氏。しかもオープニングは作詞作曲で遠山明孝氏(殆ど鉄拳そのまま)。これは殆どオタクの妄想だ。特に岡部さんが作曲で森雪之丞氏が作詩...。坂本龍一ではないのだ。
 案の定、大槻ケンヂ氏とNARASAKI氏もプロジェクトに参加している。この流れならば並木学氏に上坂さんからコンポーザーの依頼が来るのもそう遠い日ではないのではないか(※1)。まさかゲームミュージックがメジャーに浮き出てくるとは。しかも、遠山氏のトラックは大槻・NARASAKIの大御所コンビに全く負けていない。
http://www.youtube.com/watch?v=E8DkIwMYzt4

 繰り返しになるが、事態の進行の早さに驚く。きゃりーぱみゅぱみゅにもこれでもか、というほどにコンピューター・エンタテインメントの影響が見えたが、上坂すみれはさらに過激である。...と思ったらどうやら声優のようだ。テレビメディアは両者を同じものとは見ないだろう(彼らに批評性など最初から期待してないが)が、彼女たちは完全にパラレルな存在である。

※1 と思ったが、「革命的ブロードウェイ主義者同盟」の音色とメロディラインが並木氏の近作、怒首領蜂「大復活BLACK LABEL」「最大往生」と似てるので得意の路線で攻めると芸風がかぶりそうだ。難しいなぁ〜。

「4」
 最後のセクション。東浩紀氏のツイッターから飛べる野間易通氏の刺激的なアジテーション。ジャーナリズムにおいてクリティカルなものを察知する嗅覚は健在のようだ。ツイッターは読みにくいのが難点だが、野間氏の発言は快活で小気味がいい。リアルタイムで映画評論家の町山智浩氏と論争になっていて面白い。野間氏も町山氏も相手の理論の消失点をわかった上で議論してるように見える。
 奇しくも野間氏、金城武氏、上坂すみれさん(の歌詞を書いている遠山氏)、安彦氏のマンガ中の登場人物、森村泰昌氏は同じことをいっている。野間氏の運動はクリエイターのパッションと通底している。「敗北を恐れるな。恐れるべきは不正と戦う勇気を失うことだ。法が不正であるときは正義が法に勝る。」不可能なる革命はもう目の前に現れているのか?あるいはそれは常に既に目の前にある...。

https://twitter.com/kdxn

 〆の前に一個だけ。アベノミクスのバラマキの効果が早くもというか当たり前のように切れ始めた気がする。既に個人消費レベルで商品の実質価値の切り下げが目立っていたが、ここにきて端的に価格そのものも上がり始めている。正確な経済分析が読みたいが、勿論、手軽にそんなものは見つからない。探すのが面倒くさい...が、それをしないと正確な現状把握ができないんだからやらないといけない...。誰を読めばいいんだろう?



http://d.hatena.ne.jp/nomad68k/20130316/1363464772

雑記

ロッコ−ほり太氏名言集
https://www.youtube.com/watch?v=z_Fd5ZkD0-I


「いやいや、しずかちゃんよりだいぶかわいい。」

「映画ふり大問題」

「損したな、にはなってない?」
 「損したな、にはなってないですね」
「あぁん、ほんと」

 「みんなが知ってる国民的コンテンツで一儲けしようと思ってるんでしょ?それを3Dでって」
「ま、それは合ってると思います」

「そもそも『ドラえもん』がなにかっていうとギャグマンガなんですよ」

「普通の一般家庭に異質なものが飛び込んでくるという「生活ギャグ」なんですよ」
 「『ケロロ軍曹』と同じシステムですね」
「『ケロロ軍曹がマネしてるんですけど」
 「『侵略イカ娘』ってことですよね」
「、がマネしてるんですけど」

「それは『トイ・ストーリー』より『ドラえもん』が下の場合の話なんですよ、それは。『ドラえもん』てもう、はなから上のコンテンツ」



宇多丸氏の批評
https://www.youtube.com/watch?v=eQfVLv07m_4
ほり太さん後編
http://netsumoji.up.seesaa.net/image/netsumoji_084.mp3
東京ポッド許可局
http://www.youtube.com/watch?v=YQmRsXbl6iI

雑記

http://www.2chopo.com/article/837/

https://twitter.com/makimuuuuuu

 LGBTコミュニティによる脱コミュニティ者批判を諫める理性的な記事。「抜けた」仲間を叩くというのはどこにでもあることで、しかもマイナーコミュニティほどその温度が上がる。本質的には社会(マジョリティ)のマイノリティへの無自覚なプレッシャーを批判するのが筋だが、ハイ・インテンシティを余儀なくされるマイナーコミュニティではそのような理性が働くのは難しく、「泥試合」によってストレスを散らすことが多い。

 牧村さんのレポートは上記の困難が図式としてうまくまとまっていて感心する。彼女はミス日本のかなりのところまで残ったという麗人だが、容姿端麗なだけでなく論理的な文章が書ける(ちなみに、レズビアンという一義的な定義を回避して、ご本人は明確なアイデンティティを持たないふわふわとしながらもしなやかな生き方を指向しているように見える)。私はヒマ潰しに見るだけだが、にちょぽの執筆者の水準の高さにはいつも感心させられる。(この記事に関しては彼女の「強い主体性を回避する」というポリシーが記述の明晰さを担保しているように思える)

 それ以上に関心を惹かれ、羨望を覚えたのが、ツイッターによる8月19日の囀り。移民向けに歴史、法律、社会制度の解説をしてくれる無料講座があるというが、日本の法科大学院、法学部にはそれが一切ない。普遍性が外部への扉であるという認識がないからだ。自民族中心主義的ヘーゲル主義と責任回避の非政治的社会。志賀直哉公用語をフランス語にしろといっていたが、日本の政治・法律を近代化するには本当に公用語と公文書をフランス語なり英語なりにするしかないのではないか?ダメなものをいくら改善してもダメなままである。この国にはパララックス・ヴューがない。資本主義と共産党の矛盾、多民族国家という条件から中国の分裂を(経済発展への嫉妬も混じって)予見する声があるが、別に国家の分裂は外国だけの話ではない。

 ユーコク呆談が更新される。いい意味で脱力したバカ話になっており、ブラックジョークとして引きつりながら読む。大阪の橋下市長の肯定的な側面として大阪の美術館統合問題から話を始めているが、どうもそれも官僚の圧力でたち消えになりそうだということ。私は橋下市長を煽動的大衆政治家だと考えており、シングルイシューであれ不用意に支持を表明するのはどうかと思うが、浅田氏が言及する以上は批評的な検討は済んでいるのだろう(と思いたい(※1))。

 http://www.nippon-dream.com/?cat=29
 http://realkyoto.jp/blog/

 現在、極右政党で石原元都知事の下にいる元横浜市長中田宏氏はかつては横浜市でゴミの分別収集を実行しており、その結果我等が横浜市の住宅はゴミを分別収集する清潔感のある環境になっている。勿論、分別したゴミを資源として有効利用していないという大問題があるし、単にスノッブなだけでは?というやっかみもあるが、政策実行は良いことだったといえる。中田氏と橋下氏は同一政党で意気投合したことで見られる通り、大衆政治家である点で共通する。勿論、野心がありつつも地方自治に集中していた中田氏に比べて橋下氏は大阪に関係のない問題に首を突っ込みすぎており、また、中田氏はエゴの強さでしばしば眉を顰めさせる部分はあっても記者を恫喝するような暴力的な言動はしなかったと記憶する(というよりも、橋下氏ほど公の場で露骨に暴力を用いる政治家は他に見たことがない)。近代的な右派政治家といっても両者はパーソナリティが異なるので、安易に比較できないと思うが、市長の意図に関わらず、結果的に大阪市民のためになる政策があるのならばやっておいて損はないと横浜の経験からは思う。
 それにしても、集団的自衛権閣議決定は国家に対する罪になっておかしくない判断だ。殆ど紛争地域の政府のやることであり、自民党内の「党内野党」が健全に働いていれば内閣不信任決議案が出て然るべきところだ。人材がいても保守としての柔軟性=老獪さ=安定性を発揮できず、不安定な政策の暴走を許すのは、自民党も歴史的使命を終えたということなのだろうか?小泉元首相が切れ込みを入れた自民党を切り倒すのは安倍首相なのかもしれない。保守政治の側も55年体制を支えた勢力が消えた感がある。天下餅を座りしままに食うのは誰なのか?
 移民問題も、中産階級の暴走が起こっている。これは過去の問題ではなく自分たちの無知が招く困難だ。私は帰国者としてむしろ移民の権利や在日外国人の権利を明示的に認めさせたい立場だが、自分たちのやりたくないキツイ労働に安価な労働力を当て込んで、政治的権利は与えないというのは団塊ジュニアが大学のカフェテリアや合コンで話していた差別的な移民政策そのものだ。まさか何のひねりもなくこれほど露骨な法案が出てくるとは。この法案は「移民のための法案」ではなく「移民を作って抑圧する法案」である。
 少し前に批判したゲンロン憲法草案のようになっている。

http://genron.blogos.com/d/%a5%b2%a5%f3%a5%ed%a5%f3%b7%fb%cb%a1%b0%d1%b0%f7%b2%f1%a4%cb%a4%c4%a4%a4%a4%c6

 国民と住民を分けることが民族主義の強化にしかならないことは明らかだ。学生コンパの「ノリ」で法案を作るのが日本の「民主主義」であり「転向全共闘」なのだろうか?政治は子供が「悪ノリ」をする場所になってしまったようだ。

(※1 これは資本の文明化作用だろうか?だとしたらやっかいだ。困った連中が出てきたものだ。同時にマルクスの抽象化能力の高さに舌を巻く。彼の作った概念はいまだに「現役」である。維新の会が結いの党と合併したが、彼らは野心がありながら党名にビジョンを示せない点に政党の性格が現れている。彼らが求めているのは単なる資本主義的成功であり、要するに「投資家団体」なのだ。戦前の天皇ファシズムの後にできたのが経済成長を宗教とする戦後社会だといわれるが、経済成長とは要するに開発独裁である。それが投機独裁に変わる。それを仕切るのがディーラーとしての新自由主義とスポンサーとしての新保守主義ということか。...こんなに単純な分析でいいのか?しかし、単純な構造ほど強い。スキャンダルで叩かれてもプラナリアのように再生し、しぶとく再投資先を見つけて勢力を拡大する。維新の会を弱らせる方法は結局「相手にしない」こと以外にない。彼らは自らが「売れなくなる」ことを最も恐れている。橋下氏も普通の意味での政治家ではなく投資団体の政治部門の看板というだけなのだろう。彼の背後にはシンクタンクと資本があり、だから彼は自信満々であり、リーガルマインドを逸脱して母体組織の「利潤最大化」の教義に忠実に振る舞う。理念の実現は考えたことがない。自民党も、彼らが「大阪でバブルを起こしたがっているだけ」と認識しているからこそやりたいほうだいの行いを許容している。安倍首相にしろ橋下市長にしろ、政策の最終目標は「バブル経済の待望」なのだ。傍若無人な振る舞いも、「自分の成功が周囲にも波及する」という「トリクルダウン理論」を信じているからなのだろう。...アホか。これは彼らが師と仰ぐ小泉純一郎の政策が結局将来のバブル経済的成功を担保に入れたものだったというようなものである。これは推量ではない。「小泉改革」はバブル崩壊期の「バブル待望論」なのだ。バブル経済は無根拠だからこそ期待だけで起こる。しかし、グリーンスパンが世界中でバブルを起こしまくって枯渇しきったこの世界の中で今更大阪でバブル経済など起こせるだろうか?(これは東京オリンピックも同様である)ケチなアングロ・サクソンユダヤ系の金融機関が大阪に成長の余地ありと見なすとは思えない。砂漠のドバイならば資本主義のゴミをいくら作っても反発はないのだろうか?反発は必ずあると思うが。しかし、同じことを大阪でやればメチャクチャなことになる。大阪が求めてるのは歴史と伝統の再生としての経済的繁栄だろう。断言するが、世界資本主義はそんなものは一顧だにしない。「儲かるならばポテトチップを作ろうがコンピューターチップを作ろうが同じことだ」と嘯き、「信じる者は儲かる」と愚にもつかないダジャレで思考停止するのが投資家である。利潤最大化という教義は街を破壊する。つまり、維新の会のプランにのっとる限り、政策の「成功」が街を荒廃させる可能性が高い。ちょうど現在の日本各地で起こっているように。)

日本の司法はアメリカ的な近代性を獲得できるか?

民法行政法、に限らず、法律の勉強をしているとうんざりしてくる。アメリカのテレビドラマ、映画、ドキュメンタリーのようにクリアーでロジカルな法廷を作ることは日本では無理なのではないか。論理ではなく土俗的な虚栄心が先行し、法学生にも批判精神が薄く、立法に改善の見込みがない。「革命ではなく漸進的改革を」とは内田貴による民法の教科書の序文の言葉だが、あれから20年が経っても刑法が口語化され、やっとこさ婚外子相続差別違憲判決が出た程度でしかない。これでは「漸進的改革」で人権を実現するのは不可能である。人権が実現されてから人生を始めるのでは先に人生が終わってしまう。公的権威は置き去りにして勝手に生きることが正しい。60年経って法典の口語化しかできないならば、100年経っても内容の不当が改正されることはないだろう。せいぜい条文がアルファベットに変わるくらいか。

文芸批評家のすが秀実氏はロールズ的なリベラルな人権が実現できるのはアメリカ一国だけで、日本(のみならずEU)でアメリカのように裁判によって人権を実現していくのは無理ではないかということを評論で述べている。文芸批評家であるすが氏の主張は哲学的考察に基づいたものである。
裁判で少数者の人権の実現はできず、(暴力)革命による政治制度のポジティブな転換もないとしたら、少数者は生涯公の場所で生きることができないことになる。
すが氏は学生運動と文学こそがが革命だという(逆にいうと、国家権力、資本、大衆的無知のインペリウムは鉄壁である)。自己実現、あるいは革命(?)の展望はさておき、私に文学と学生運動が必要なことは確かなようだ。法曹界には全てを変える根本的な地殻変動が必要である。「全てを変える」などという人間は必ず失敗する。しかし、失敗が要請される程度には矛盾が堆積している。大きな賭けが大して世の中を変えないことは歴史の教えるところだ。とすると、自由を求める者には破滅しかないというブラック・ジョークのような状況にあるということか。
規律訓練型権力を批判していたフーコーが早すぎた晩年に自己形成されるような自己抑制の技術を探求していたが、権力の挑発に乗らずに単独的であり続けるためには高い自己規律をを持つほかないのではないか。革命はない。裁判による自己実現もない。しかし生き続けなければならないとするなら、そこにあるのはマイノリティとして自己規律をもって生きること以外にない。つまり、マイノリティはインテンシティ(強度)を強制されており、怠惰や弛緩から排除されている。ロジックに則った楽天的な展望を持てないのだとしたら、生はヴァーチュアルなものでしかありえず、ヴァーチュアルな者が本来性をオルタナティブな領域にプールしておくためにはインテンシティ=自己規律によってこれを実生活に繋ぐほかない。結局、インテンシティが不可欠ということになる。

いわゆるポストモダン論はマイノリティが強い主体性を持つことへのアンチテーゼ(マルクス主義脱構築)として受容された。マジョリティに対してカウンター的に形成される「強い主体」はかえって新たな抑圧を生み出すだけだ。だったら主体形成を意思しないで、自然成長性による素直な認識を維持するほうがよいのではないか、と。だから、人間性や強さを避け、動物性や弱さを強調するのは通俗的ポストモダン論の当然の帰結である。しかし、これまた当然の帰結として、動物性と弱さは国家、資本、大衆への無際限な迎合を生み、その結果としてマイナー性を失った。当たり前だが、単に人間性や強さに反発してもマイナーな自己実現にはならないのだ。必要なのは支配者とマラーノの間でマイナーな人間性を作り出すことであり、強い主体性と無気力の間でしなやかな認識を持つことである。概念を作り出すためにはインテンシティが必要である。主体性は回避してもインテンシティを失ってはならない。

 いとうせいこう氏のラジオ「トーキングセッション」を聞いたが、法に対するナイーブな認識に考えさせられる。私は福島での原発事故以来、広範に真摯なテクストを発表し続けるいとう氏の活動に感銘を受けている。ハイクオリティなテクストが襞となって積み重なり、矢継ぎ早に発表される小説の水準は高く、東京新聞での対談も素晴らしい。ただ、このラジオ放送中の法の官僚的な無びゅう性への信頼については、理論的にはそうあらねばならない反面、日本の法曹界が実務レベルでは最悪の経験主義に依っているという事実を知らないと感じる。いとう氏に限らず文学者は法律関係者の虚飾、無責任や暴力的な側面を見ようとしない。法が理想主義的な当為であることと支配者=法律家がアウグスティヌス-シュトラウス的な意味での犯罪者であることを同時に見ない限り、文学が法律の世界を描くことはできない。
 國分功一郎との対談冒頭で述べている「低いところからくるおぞましい権力」への言及に見られるとおり、いとう氏の小説家・ラッパーとしての政治感覚は鋭敏である。そのいとう氏をもってしても法曹界についてはステレオタイプな認識が出てくるのは、天皇制のスクリーンによって裁判の「世界」を直視することができないようになっているからではないか。
 ...いや、話の流れでたまたま必要なことをいっているだけで、そんなことはいとう氏は当然に知っている気がしてきた。私がナーバスになりすぎているのだろう。

 五木さんの話は面白い。まさか『進撃の巨人』にヤヤ・トゥーレまで出てくるとは(笑。

http://www.nhk.or.jp/r-asa/session/

サイト・サカモトからのメール

 ミュージシャンの坂本龍一氏が7月にがんの闘病治療をするために芸術活動の休止をアナウンスした。彼のサイトから闘病治療中の坂本氏から現在の状況についてのメールが届く。一昔前のファンクラブの会報のようでアットホームで落ち着いた雰囲気が嬉しい。ネットに本来期待された使用方法であろう。逆にいうと現在のネットで見ることのできる「情報」は資本と国家に作られたものでしかない。メールでは闘病のためにコンサートをキャンセルせざるをえなかったことへの謝罪と、スペシャルゲストや共演者への感謝の言葉がつづられている。それにしても坂本龍一氏の代わりで出演するのが山下洋輔氏と清水和音氏というのだから、代替出演者の豪華さには思わず笑ってしまう。また、ラジオでおなじみの渡辺真理氏がボランティアで司会を勤めてくれていたというのだから、坂本氏の華麗な交遊関係を改めて実感する。
 浅田彰氏が不整脈で倒れたかと思ったら坂本氏がガン治療を公表する。柄谷行人氏も若くないという年齢ではない(にも関わらずいつまでも若いイメージがあるのだが)。私淑している巨匠に甘えずに私自身が「襞に重ねて襞を」作らねばならない時になったのだ。かつては「有名人なにするものぞ!」と思っていたのが、一旦英雄性を認めてしまうと依存が生まれてしまうのは困ったことだ。うまくいくかどうかに関わらず、私自身が切片にならなければならない。ハードルは山のようにあるが、その緊張から孤立することはできず、ボックスしなければならない。


https://www.youtube.com/watch?v=J9bA34-mR1A

https://www.youtube.com/watch?v=Szr0TSXcWok

 後者は主旋律を前者から拝借している。坂本、細野はゲームミュージック関係者にとって文字通り創造神であるが、音楽的教養に差があるために抑圧が生じ、コンポーザーが直接彼らに言及することはそれほどない。二人がジャンルの間接、直接の創造者であることは当然の前提であると同時に「崇高さの麻酔作用」によって言及が差し止められるのだ。幼児化が止めどなく進むネット化された現代社会において、これは必ずしも悪いことではない。直接の言及が阻害されることが創造性を生むからだ。後掲のバトルガレッガの1st.stageBGMは1996年の作品だが、坂本、細野を水脈とするゲームミュージックのそれなりの達成に思える。

 このバトルガレッガは一風変わったゲームシステムを採用しており、プレイヤーがゲーム内で卓越性を示せば示すほど難易度が青天井で上昇する。そのため、ルールに則って卓越性を「示しすぎる」とゲーム続行が不可能なほどに難易度が上がり、結果的にゲームオーバーになる。そこで、「オールステージクリアー」するために、プレイヤーには二つの選択が迫られる。1、殆どゲームをしないことで難易度を上げずにステージを進める(ロー・スコア・ゲーム)。2、難易度が上昇してきたところで適宜に「自爆」して難易度を下げてゲームを続ける(ハイ・スコア・ゲーム)。
 昔から私はこれを資本主義に応用できないかと考えている。市場に適応しすぎるとかえって会社存続が不可能になり、適宜に解散を繰り返さないと拡大再生産が挫折するようなプログラムを組めるのではないか?独占企業に貸し付け、投資すれば必ず儲かるという状態が資本の一極集中を生む。それが世界を帝国主義戦争へと突き進ませる。だとしたら、何らかの条件を満たした「儲けすぎ」の企業は活動の難易度が鬼のように上がるようにして適宜に解散しなければ活動できないようにするのだ。現在もてはやされている情報、金融資本主義の英雄的企業の財産を全地球上の人々に分配するだけでどれだけの矛盾が解決できるかわからないということはつとにいわれていることだ。

 実は、このアイデアは資本主義を「終わらせる」アイデアにはならない。なぜなら、プログラムが「自爆」を半ば強制していることを発見したプレイヤーはそのことをゲームプレイに反映させることで「臨死」のような荒技を発見し、また、かえってハイスコアが飛躍的に伸びたからだ。ゲームに規制をかけたことがかえってゲームを爆発的に発展させたのだ。「自爆」を内面化し、それをゲームで実践することでかえってゲームプレイは神がかり的になった。だからこのアイデアベンヤミン的な神的暴力=革命=資本主義の終わりにはならない。せいぜい独占禁止法的なアイデアに止まる。つまり、批判的に見るならば搾取(ポイント獲得)の効率性の向上とその量的な拡大をも意味する。しかし、同時にそれなりに面白いアイデアだという感覚がある(というよりも、ガレッガのゲームシステムそのものが独禁法の一種の理想的な理論モデルだといえる)。

 資本主義から離れて話を坂本氏に戻すと、死を内面化し、それを生へと折り返すことは彼の芸術家としての創造性のさらなる開花を促す可能性がある。私は彼があの飄々とした顔でそのようなカムバックを果たすのではないかと期待している。今は遠くにいるファンとして坂本氏ががん治療に成功し順調に回復されることを祈りたい。彼のステージはまだ終わっていないのだから。

                                                                2014年、69回目の敗戦の日に。